GAUZEの13年半ぶりの新譜を買ったというお話
どうもぼくです。
つい先日GAUZEの13年半振りの新譜『言いたかねえけど目糞鼻糞』が発売されまして、ぼくの周りでもすでに手に入れて聴いたという人も多いと思うのです。多分聴いたほとんどの人が背筋がビッとなるような思いをするアルバムだったのではと。一曲目の出音一発目からGAUZEだとわかるのほんと凄いなと改めて感じました。
10曲14分弱のアルバム、文字面だけ見ると短いように感じるけど、いざ聴いてみると、とてつもない音と言葉と変わらないGAUZEの信念がこれでもかと詰め込まれていて、短さを感じない。普通楽しい時間だったりすると、体感時間はあっと言う間なんだけど、GAUZEの場合はそんな事がなくて、最初から最後までただただ圧倒されているため、時間の感覚がおかしくなる。演奏はいまだブレる事もなく、速い。とにかく速いしGAUZEの曲の特徴でもある、ストップ&ゴーが徹底されてるからメリハリもあって徹頭徹尾GAUZEだった。歌詞も強烈に刺さる歌詞が、シンプルに印字されたブックレットから物凄い圧を放っているように感じた。
と、とにかくGAUZEは凄いバンドであるのは今もって変わらず。「久しぶりにライブ見たいな」なんて思いつつ、自分のGAUZE初体験はいつだったんだろうとか思ってたら色々思い出してきたので、ちょっとまとめて書こうかなと。ツイッターだと文字数的な関係もあるし、分割投稿するのはあんま好きじゃないし。
37歳のぼくが産まれた頃にはもうすでに活動を開始していて、未だに第一線にいるGAUZE、ぼくが初めて聴いたのは約20年前の多分17歳の時とかだったと思う。デジタルリマスター盤のCDが発売されていたので、プレ値とかもなく普通に入手出来るようになっていた。とは言え、高校生の自分には新品定価でCDを買うか、中古で定価より数百円安いCDを買うかでかなり悩んだ記憶がある。散々悩んで収録曲数が多いという理由で『限界は何処だ』を新品で買った。
ぶっちゃけ曲を聴くまでは名前だけ知ってる有名な日本のハードコアパンクのバンドというイメージしかなかったし、ネットも大して普及してない頃だったから調べようにも手段も少なかったし、まだハードコアパンクを聴き始めた頃だったから、どんな曲かも想像がつかなかった。そりゃその一年位前までは175Rとか聴いてたんだからしょうがないwハードコアと言われても、まだDISCHARGEやCHAOS U.K.などの80's UKを聴き始めた頃だった。ぼくら世代だとハードコアを聴く入り口になったのはRANCIDとかその辺というのが多い。
なので、1曲目の『山深雪未溶』を聴いた時の衝撃はすごかった。イントロこそゆったり入るけど、その後の怒濤の展開に、荒々しい音、唸るようなボーカルが全部想像以上で、理解が追いつかなかった。初めて聴いた瞬間に恐怖心に近い感情を抱いたのは、DISCHARGEとCRASSとGAUZEだけで、未だにこれは変わらない。
個人的に一番好きなアルバムは『面を洗って出直して来い』です。
その後19歳くらいの時、バンド関係の友人も一気に増えて、ライブにも頻繁に通うようになった頃、HUMONGOUSとの共同企画で高田馬場AREAで7月半ばにやってた、通称「海の日GIG」が初めてGAUZEを見に行ったライブだったと思う。出演バンド数も客も多く、スゲー!なんて思ってたら、GAUZEが始まった瞬間にフロアの圧縮具合と酸欠度合いが急激に上昇。うっかり前の方にいようもんなら、たくさんの人の足が頭上を通過、なんなら頭ガンガン蹴られるくらいのたくさんのダイブする人達。男も女も若いのもおっさんも関係なく、前の方の客はみんな大暴れ。これはやばいと思って、少し下がって見る事にしてタバコに火を着けようとしたら酸欠状態で火がつかなかったというのをよく覚えてる。これがGAUZEのライブ初体験だったはず。
そしてなんやかんやと時は経ち、一時GAUZEが活動を休止していた頃、ひょんなきっかけでモモリンさんと知り合う事に。当時通ってたアイドル現場絡みで、憧れだったFUCK ON THE BEACHのツヨッシーさんと知り合い、そしてツヨと呼べるくらいに仲良くなってたぼくは、いつものようにツヨとバカな話をしてゲラゲラやってたんだけども、ツヨの横にいる人が凄くかっこいいブーツを履いていたので、思わず「そのブーツかっこいいですね!」なんて話しかけたんだけども、その様子見てツヨはなんかニヤニヤしてた。ぼくはその時はまだ気付いておらず、帰りの電車の中で「どこかで見た事ある人だったんだよな〜」と一生懸命思い出していたら「モモリンさんだ!」と気付き変な汗がバーって出た笑、ロン毛になってた時だったから最初まったく気付かなかったのだった…それでツヨはニヤニヤしてたのか…
その時期はモモリンさんに遭遇する機会も多く、モモリンさんもぼくの事を覚えてくれていて、普通に話が出来るようになったのとか今考えても凄い事だなと。一度大阪に遊びに行ってた時にアメ村付近を散策してたら「おーいりょーちーん!」なんて声かけられて、振り返ったらモモリンさん!て事もあり、めちゃくちゃ驚いた事もあった笑
モモリンさん以外のメンバーさんと話をした事がないというか、声もかけられないのでどんな感じかはわからないんだけども、モモリンさんはすごく気さくな方で、話をする時はいつもステージで鬼気迫るギターを弾いてる人とは思えないくらいにニコニコしてるのが印象的でますます好きになったのです。
というような事を思い出してた時に、GAUZEにまつわるエピソードをもう一つ思い出した。この話を書こうと思ってツイートしようかと思ったけど、ツイートすると長くなりそうだったから、ブログにしようと思ったのがきっかけだったので、ここからが本編的な。
ぼくは結構長い事免許を持っておらず、32歳になった時に仕事を辞めて暇があったから免許合宿に行って免許を取る事にしたという遅咲きドライバーで、免許を取得してからまだ5年程しか経ってない若造ドライバーなのでもある。(免許とって2年で、Cのツアーの時に福岡から大阪までの道のりの3分の2、大阪から三重、三重から東京までを運転する事になるとか思ってなかったけど笑)
んで、免許合宿の地に選んだのが新潟県の糸魚川。理由は、母方の実家が新潟なのと、ぼくも生まれは新潟市なのもあり、新潟行きたいと思ったからという理由なんだけど、糸魚川は富山との県境な土地なので、行ってみてそこまで新潟感はなかった。と、まぁこんな話は別にいい。
そこの教習所の教官は、優しい人ばかりで田舎の純朴な教習所って感じだった。ぼくは組み合わせ的に全然当たらなかったけど、一人鬼教官がいると聞き、合宿に同じタイミングで来てたぼくより年上の人が「あいつやだわ〜」って毎晩言ってた。まぁ当たらないからいいか、と思ってたら、その教官に一度だけ当たった日があった。よりにもよって、縦列駐車とか、初心者は苦手なとこで当たったから変な緊張をしてた。
50代後半くらいの倉石さんという教官はシュッとしている、ややコワモテのおじさまって感じで、言葉数も少なく、声も大きくなくて、こりゃ若い子はビビるわなって雰囲気の人だった。
教官が車に乗り込み場内をぐるぐる。運転をかわってぼくがぐるぐる。「じゃあ縦列やるか」と言われ「押忍!」なんて言いながら場内の縦列練習用の場所に向かっていた時に、ぼくの着てるTシャツを見て
教「君はあれか、パンクとか好きなのか」
とか言い始めた。なんのTシャツを着てたかは覚えてないけど、バンドTシャツだったと思う。
りょ「パンク好きですし、バンドもやってます。都内でライブしてたりもしてます」
なんて返すと
教「東京か〜、俺は昔高田馬場に住んでた事があってな」
とのこと。こっちは縦列うまく出来るか不安でドキドキしてるので「はぁ」なんて返してたら、
教「君は30歳くらいだっけ?そのくらいの年齢じゃ知らないよな、GAUZE」
なんて言ってた。ん?GAUZE?いやいやよく知ってるわ!と思い、
りょ「GAUZE知ってますよ、大好きなバンドです」
と伝える。すると、
教「俺はさー、その昔GAUZEにいたカトーイチローと仲良かったんだよ、知ってる?コブラツイスターズの加藤」
りょ「知ってます、イチローさんがGAUZEにいて、コブラツイスターズになったのもC-BAやってたのも知ってます」
教「ほー、知ってんだなー若いのに。俺は加藤と仲が良かったからさ、まぁパンクってよりもロックンロールな側にいるのが多かったから、当時のパンクの話とか聞かれてもあんまり知らないんだけどな」
みたいな会話をした。その頃はGAUZEの活動休止時期だったのもあるけど、未だに解散はせず日本のハードコアパンク第一線でいまだにやってますよ、なんて言うと少し嬉しそうな顔して、
教「まぁ向こうはもう覚えちゃいないんだろうけどさ、GAUZEのメンバーとはよく高田馬場で飲んだりしてたんだよ。懐かしい事思い出したなー。若い子でロック好きとか言ってる子もよく教習にくるけど、流行物のロックでもないようなのをロックって言ってるような子ばっかりでな。君みたいにちゃんと知ってる子が来たのは初めてだからな、こういう話を教習生にするのは初めてだな」
なんて言ってて、全然この人怖い教官じゃないじゃん、なんて思ってた矢先に、縦列練習用のポールにおもっくそぶつけて、結構しっかり怒られた。
その教官も音楽やりたくて東京を目指したクチだったらしいけど、夢破れというか、現実を見る事に切り替えて地元・糸魚川に戻り教習所で働くようになったらしい。だからコブラツイスターズが売れた時には、自分ももしかしたらあそこにいたのかななんて思ったそうで。今は趣味仲間でロックバンドを結成して、地元で細々と趣味程度ではやってるんだ、なんて事も言ってた。
もっと色んな話をしてみたかったけど、その教官に当たったのは、後にも先にもその日のその時間限りだった。相変わらず、合宿所の同期のような人は「あいつやだよー」なんて毎日言ってたけど。
というような事を、GAUZEの新譜を聴いてる時に思い出したので書き起してみたのでした。まだ手に取ってない方はぜひ。そして、GAUZEを聴いた事が無いという方もこの機会にぜひ。
次回更新未定!!
フライヤーの話(と7月23日の企画の告知)
どうも、ぼくです。
またしても更新期間が長くなってきておりまして、お待たせしてたらごめんなさい。待ってなかったらどうも失礼しました。
思い出し日記も続き書かなきゃなーと思ってるんだけど、それは改めて。先日ツイッターにちょっとアップした、昔使ってたデジカメからの画像を少しサルベージしたので、その辺も絡めて書きたいなぁとは思っています。
ということで前回のマクロス愛を語ったブログから約3ヵ月。今回は告知もかねたブログを、人のあまり見ない時間に更新するわけで告知する気あんのかと言われそうな気もするけど。暑くなって寝苦しい夜になってきたので、中々寝付けない時とかにどうぞ。(とか言ってたら朝4時ですね。書き始めたの0時頃だったのに…)
ということで、先に告知。上記画像の通り、
TODESTRIEB企画、DEsperAte THanatology vol.10
2021年7月23日(金・祝)at西荻窪PitBar
やります。
出演バンドですが、TERROR CHORDは大阪のデジタルアナーコパンクバンド、1stシングルをリリースしたばかりで、今話題も大きいバンドです。COFFINSは前から一緒にライブやりたいと言ってくれていて、ついに実現。KRUELTYは先日企画に呼んでいただいた時にまたぜひ一緒に演れたらと話しておりました。そこに、アナーコパンクのレーベルとしてもお馴染みのAcclaim Collectiveがディストロで来てくれます。TODESTRIEB企画らしいメンツになったのではないでしょうか。
チケットは、前売2000円、当日2500円となっており前売が超お得です。ドリンク代はないので、前売価格で遊びにきてもらって、浮いた500円でPitBarで飲み物や餃子など多めに頼んでお腹も満たして下さい。
前売予約に関しては、PitBarのメール askapunk2020@gmail.com までメールしていただくか、各バンドまでお願いします。その時の状況がどうなっているかわからないのですが、入場時の制限などもありますので、PitBarの定めるガイドラインを確認した上で遊びにきてくれたら幸いです。はやくこの状況改善してほしいですね。補償もきちんとできない国がよくオリンピックはやれまーす!とか言えるよな。
そんなこんなで、今回の話、フライヤーについて。
フライヤーって何って思う人はあんまりいないと思うんですけど、一応説明しておくと、告知用のチラシですね。それをぼくは作ったりもしています。
んで、今回のフライヤーのイメージなんですけど、見たまんまのアレですね。現時点でどうなるかわからないけど、開催する気満々っぽい東京オリンピックがちょうど開催される日程でのライブ。フライヤーを頼まれた時にほとんどイメージは浮かんできたので、あとはどれだけTODESTRIEBっぽさを出すかってとこに注力した感じです。いつもだったら、ごちゃごちゃと文字やら背景やら置きたくなる性分なんで、最初に形にした時はもっとごたついてたのですが、そこから引き算していった結果が完成型になりました。
通常、TODESTRIEBの企画のフライヤーはボーカルのサトシ君(DROPENDの時の名前はマサル)が作ってるんだけど、今回サトシ君の私生活が忙しいためフライヤーをぼくが作成する事に。サトシ君のフライヤーは手描きで、点描で描き上げるアナログスタイルだから時間かかるんですよね。対してぼくはイラレとフォトショを使うデジタル作業なので、素材を集めつつ、デザインの方向性が定まっちゃえば、作業自体はあまり時間もかからない(手抜きとかじゃなくて)。仕事柄、イラレ・フォトショを使ってるので、あまりその辺にON/OFFは無くて、仕事中の息抜きとか、思いついた時にがーっと形にしたりするやり方なので、わりと自由な時間でいつもやってます。
他の人がどうやって作ってるのかは全然知らないので、ほとんど我流なんだけども、デジタルなので下絵がいらないと言うのは作業時間的に短縮出来るとこかも。文字や絵柄の大きさも拡大縮小は楽だし、色の変更もすぐ出来る。アナログだとそれは用意には出来ないから、手描きで作っている人はほんとに凄いと思う。バランス感覚とか色彩感覚とか。下絵を作ってフライヤー作ったのって多分1回か2回しかないかな、それこそ作り時始めた頃。
デジタル楽そうでいいじゃん、よく言われるけど、やっぱりアナログにしか出せない質感とかはあるので、その辺はどっちにも長所はあり短所はありって気がする。コピー機でプリントしたやつを切り貼りしてデザインの下地を作ってからデジタルで編集して仕上げた事もあったし、手描きの文字やイラストをスキャンして使ったりもしてみたこともありました。
フライヤーらしいフライヤーを最初に作ったのが、2014年のSTAGNATION企画 VIOLENT PARTY。
今思うと、こうしとけばよかったなとか思う点は結構ある、企画タイトルとか見にくいし。アズサ君(STAGNATION)から「フライヤー作れない?作ってみて」という軽い感じ(笑)で頼まれたのがきっかけだったが、この頃はイラレ初心者で、作業しながらネットでイラレの使い方を調べつつ作った。そんな所から始まり、なんだかんだと未だにSTAGNATIONのフライヤーやら、DVDの映像編集やマーチャンダイズの作成などなど、色々仕事を振ってもらってる。このフライヤーの時は「NOISEっぽく、後は猫」っていうオーダーで作ったのはよく覚えている(笑)
思えば、アズサ君からは結構ノリと勢いで何かを頼まれる事が多かった(笑)Cに加入したのも「なんか映像作れない?」と言われ、その時の仕事で動画編集ソフトを使い始めた頃だったので「簡単なのだったら…」という所が入り口に。とは言え、基本的に良い方に進むし、中々体験できない事も体験させてもらえて、自分のスキル向上にもなっているので、本当にありがたいです。
今、主に作っているフライヤーはSTAGNATION企画、アズサ君個人企画、C企画が大半で、次いでシンゴさん(Nanchopapa!!)企画。その他に頼まれて、依頼をこなす事がたまーにあるという感じ。コンセプトはやっぱりそれぞれにあわせて作る事が重要だと思っていて、依頼側にイメージがあればそれを形にするし、お任せだったら、企画の意図とかを考えながら作るという感じ。作り始めた頃は、もっと主張を押し出してパンク然としていた方がいいのかとか思っていたりもしていた(それはもちろん大事ではある)けど、最近は遊び心も盛り込む余裕とかも出来てきた。
遊び心的に楽しかったのは、ABSOLUTE ZEROの企画フライヤー。
メタルクラストなABSOLUTE ZEROのイメージと、栃木県内でしか開催していなかったWALPURGIS NIGHTが東京で初企画だったので、来日メタルバンドのチラシ(フライヤーではなく、チラシというのがポイント)みたいにしようと思って遊んでみた。もっとバタ臭い感じにしたかったんだけど、その辺は個人の力量の限界だったので、もっと精進しなければと思った。コロナ禍で敢えなく中止になってしまったので、イベントのリベンジをいつか…
あとは、2019年の「KILLER祭」
下北沢KILLERSのオーナー井上さんから話をいただき、「KILLER」という名称にふさわしいおどろおどろしいイメージでというコンセプトの元、結構連絡を密に取り作ったフライヤーでした。この企画に付随したノベルティのデザイン作成とかもさせてもらい、かなり楽しく作業させてもらいました。
フライヤーを作る時に、なるべく他のバンドのフライヤーは見ないようにして、一回頭をカラにしないといけないというのが自分の難点。曲作る時もそうなんだけど、直前に見聞きしていた「いいな」と思うものにもろ引っ張られるクセがあるから。なので、依頼がきたその日は、どういう方向性にしようか考えながら寝る事にして、一回自分の思考だけで頭の中を満たさなくちゃいけない。すんなり思い浮かぶ時は翌日から作業開始出来るけど、そうじゃない時は何日かかかる事も。
デザイン的な部分では、やっぱりJamie Reid(ピストルズのデザインでお馴染み)や、Gee Vaucher(CRASSのアートワーク)が最初に影響を受けた。けど、それっぽく作ろうとしても、元々がもう完成されたデザイナーの作品なので、模倣というか劣化コピーのようにしかならない。もちろん、そういう依頼ならその通り作ろうとは思うけど。なので、最近は参考にする事はやめた。
デザインの手法として、今もっとも自分の中で研究している方は、アニメ演出家の尾石達也さん。タイポグラフィと言われる字をデザインとして盛り込む分野では、ぼくはこの人以上の人を知らない。アニメだからこそ、文字も画面で動かせたりする利点はあるので、当然のようによりよく見える事もあるとは言え、尾石さんの表現手法は無駄がなく、シンプルなんだけども、強烈なインパクトがあって、目指す所の一つだと思ってる。尾石さんを意識するようになってからは、絵柄だけではなく、フォントその物にもこだわるようになってきた気がする。
アニメの中に実写を入れこんだり、シンプルな背景にしたり、文字だけのカットを作ったり、と、尾石さんの演出作品は見ているだけで物凄く勉強になる。さらに言うと、その尾石さんを起用する総監督の新房昭之さんも、ぼくのデザインの(心の)師匠だったりもする。
この辺の話はアニオタ的な方面にそれるので、割愛。
と、楽しく毎回フライヤー作らせてもらってますが、これは完璧だ!って思えるフライヤーって中々作れていない。7年程フライヤー制作をしてきて、会心の出来だったなって思うのって、ほんとに僅か。もちろん、手抜きしたとかではく、その時その時真剣に作成している。自分で作った物はあとから見直したりもよくしてるんだけど、たいていの物が「こうしておけばよかった」とか「これが足りなかった」とか思っちゃうものばかり。
よくアズサ君と言ってるのが、2019年2月のVIOLENT PARTYのフライヤーを超える物を作ろうという事なんだけども、このフライヤーに関しては自分も、アズサ君も満足の出来だった。
いつもSTAGNATIONのフライヤーって、特に決まったイメージが無いというか、ノイズがテーマなので、その時のアズサ君の趣向で完成型がだいぶ変則的だったりする。なので、ボツ案になる事も踏まえて3つ〜4つイメージを作って、その中で自分的にこれかな?って物を2つ程アズサ君に見てもらい、そこから修正ってパターンなんだけど、この時は作ってすぐにスッと収まる感覚と自信があって、これ一枚だけ送って見てもらった。そしたらそれがアズサ君にもスッとハマり、色味を少し暗めにするくらいでほとんど修正しなかった。よく野球選手が「ホームラン打つときってバットに当たった瞬間にわかるんですよね」みたいな事を言ってて、何言ってんだこいつとか思ってたんだけど、なんとなくその感覚がわかった。
今見返してみても自分では手を加えたいとこはない。唯一、最近は必ず入れるようにしている、ライブハウスの住所、電話などのinfoを書き加えたいくらい。
フライヤー作った事ある人はわかると思うんだけども、たいてい作ったフライヤーに対して、あまり評価や感想をもらう事ってないんだけど、このフライヤーに関しては、他の出演者やお客さんからもいい評価をもらえて、それがすごく励みになったし、嬉しかった。
そして、自分の中でのかなりのポイントになったのが、これ。
制作時はかなり試行錯誤をして、上述の2月のフライヤーの記憶も新しかったので、かなり迷いながら作った。アズサ君にも中々刺さらず、色々提示し続けて落ち着いたのだった。今見返しても、結構悩んだ挙げ句落としどころが見つかってないなーという所はある。視覚的な効果を強めたくて、GIF画像にして点滅させてみたりもした。
フライヤーの個人的な出来具合は置いておいて、このライブを見に行った帰り道の事、Moon Stepから中野駅に向かっていると、プラナリアのコータさんがいたので駅まで一緒に帰りながら話をしていた時に、コータさんから「今日のフライヤーはりょーちんが作ったんでしょ、ありがとね」という事を言われ、その後に「フライヤーもその日のライブの一部で、出演者みたいなものだよね」って言われた事が凄く嬉しく、心に残った。基本、人から言われた事って、そこまでしっかり覚えてない時があるんだけど(失礼)、この言葉はすごく刺さって今でも忘れられずにいる。「もっとしっかりフライヤーを作りたいな」という気持ちにさせられた、気付きをくれた一言だった。
この時コータさんからこの言葉をかけてもらってなかったら、いつか惰性でフライヤーを作るようになってたかもしれないし、「どうせ出演者とかのinfo以外はあんま見てもらえないだろうな」っていう気持ちで作るようになってしまっていたかもしれない。自分の中に「フライヤーを作った企画」って印象はあっても、「フライヤーもライブの出演者」という発想はまったくなかった。カッコよくて楽しかったライブのフライヤーがダサかったじゃカッコつかないよなと思った。本当に、尊敬できる先輩の言葉は身に沁みるし(だからこそ尊敬するんだけども)、今後のフライヤー作りのモチベーションで、スローガンになった。
STAGNATION企画のフライヤーを作ると、最初はアズサ君からしかリアクションが無かったが、いつからか他のメンバー全員からもリアクションをもらえるようになり、それも今自分がフライヤーを作る上でのモチベーションになっている。デザインでは、STAGNATIONのハチ君はめちゃくちゃ凄くてぼくは中々到達できない所にいるなと思ってるのに、フライヤーとか褒めてくれるのは凄く嬉しい、ハチ君て裏表ない人だからなおさら。シンゴさんからはお任せで依頼をもらい、自分で楽しみながら作った結果、お褒めの言葉をいただくので、その辺もろもろ皆様の優しさが本当にありがたいことです。
ここからちょっとイヤな話
普段あまり濁して書くのは好きじゃないんだけど、今回はちょっとあえて濁して書きますが、某企画で、フライヤーを友達が描いていたりしていた時もあったが、その企画者からフライヤーに関してお礼を言われたり、ライブのゲストで来てねだとか、当然のように報酬もなく作っていた状況を聞いて、ぼく含め周囲からは、もう断っちゃいなよ、と言っていた時があった。
ちなみに、ぼくはほとんど報酬をもらって作成した事はない。別に報酬が欲しくて作ってるわけではないし。やり始めた頃は、報酬がもらえるレベルの物を作れていないという意識もあったけど。TODESTRIEBの出演する企画や、Cの企画に関しては、自分の所属しているバンドのフライヤーだから、そもそも報酬をもらうのは違うと思っているし、STAGANTION企画に関しては、ゲストで入れてくれたり、音源をくれたりという事があるので、それでいいと思っている。アンダーグラウンドのパンクシーンにいる上では、その辺の相互協力があって成り立つと思っているし。なにより、それを生業としているわけではないから。作った物を見て、反応をもらって、そこから別の案件につながった事もあるので、自分のスキル向上に最適だと思っているし。
ただ、上述の友達の件に関しては、やはり納得がいかない部分がある。フライヤーを他の人にも依頼して、同じ企画で2つも3つもフライヤーがあったりして、フライヤーに対しての思いはゼロなんだろうなと思ってしまう。その友達は、時間の無い中手描きのフライヤーを仕上げていたのに、それをさも当然で受け取られて、それで「はい終わり」はあまりにも自分勝手で失礼な話。報酬を出せないのなら、ゲスト枠を用意するから来てねとか、何かすべきだと思う。一回こっきりならまだしも、それが常と聞いているし。
今のところ、その某企画者から依頼された事はないけど、依頼が来る事があったらそれは断るつもりでいる。そういう細かな部分のケアをできてない人なので、当然のように出演者へのケアなども出来ていないとかよくない話も聞こえてくる。そんな狭いコミュニティ内にぼくらはいるので、善意で協力したのに自分の足下まで掬われたらたまったもんじゃない。
ここまでちょっとイヤな話
さっきも書いたように、STAGANTIONのメンバーやシンゴさんと言った周囲の人の言葉や、プラナリアのコータさんの言葉があって、フライヤーを作る事がぼくの楽しみの一つになっていたりもしています。やっぱり、ライブの当日までは、視覚的な情報としてフライヤーしかないわけだから、そのフライヤーを見て「お、かっこいいフライヤーじゃん、このライブ行こう!」とか、一人でもそう思ってくれたら作った方としても嬉しいわけです。自分も、他のライブのフライヤー見てそう思う事もよくあるし。
やっぱりパンクって、フライヤーとも密接な文化になっている音楽ジャンルというかカルチャーだと思うんですよね。80年代のフライヤーとか、今見てもめちゃくちゃカッコいいのとか多いし。殴り描きみたいなのでも、丁寧な切り貼りコラージュでも、バンドの主張が伝わってきたりするし。その一つ一つが魅力なんだと思っています。だからこそ、ダサい物は作りたくないなって思いながらいつも作ってる。作れているかは別として。
部屋掃除とかしてると、たまに自分がライブハウスに通いだした頃のフライヤーとか出てくるけど、今見てもカッコいいのばっかりだもんな。
これからも依頼がある限りはフライヤーを作り続けていけたらいいなと思っていますし、10年でも20年でも先に、昔のパンクのフライヤーをまとめたとか言う写真集でも誰かが出した時に、ひっそりとそのページの中に載ってくれればそれも本望。
このテイストは、りょーちん作じゃね?って思われるレベルに持っていけたらそれが一番いいのかなー。
というわけで、2021年7月23日のTODESTRIEB企画at西荻窪PitBar、よろしくお願いします!!!!!(笑)
次回ブログ更新未定、震えて待て!!!!!!
マクロスが好きと言うお話
マクロの空を〜つらぬいて〜地球をうった雷は〜♪
どうも、ぼくです。
おかげさまで、パンク思い出し日記がそこそこ好評いただいておりまして、嬉しい限りです。ぼく個人の事だったり、当時の事を知らない人にはあまり面白くない内容の思い出し日記と思ってるんですけども、読んでくださってる皆様ありがとうございます。
そんなさなかではあるんですけど、今日はタイトル通りマクロスの話を書きたいので書きます。誰かに書けと言われたわけでもなく、ただなんとなく書いてみようかなと思っただけですが。別にこのブログは有料にしてるわけでもないし、広告収入を得ようと思って書いてるわけでもなく、なんとなく思った事を書いたりもする場所だったりもするので、その辺は好きにさせてくれさい。昔の事思い出したり、写真探したりも中々大変なんです(汗
また近々思い出し日記は書くので、そしたらよろしくお願いします。
ということで、今回はマクロス。正式なタイトルは「超時空要塞マクロス」
1982年にテレビアニメが放送され、今年で39年の人気アニメ作品。来年40周年ですって。ロボットアニメの中でもかなりの大御所かつ、ビッグタイトルで、それなりに名前も知られている作品ゆえに未だに新作も作られてるんですけど、マクロスを知らない人からはガンダムの影に隠れてしまい、評価の伸び悩みがある感も否めない。知名度がいまいちなのかなって思ってしまう節はある。マクロスシリーズを好きな人でも、近年のマクロスFやマクロスΔから入った人には、初代マクロス、マクロス7、マクロスプラス、マクロスゼロ、マクロスIIはあまり刺さらないのか、はたまた世代や趣味の差もあるのか、何か壁を感じる所もあるので、そこがファンとしてはつらい。最近だと「歌マクロス」ってゲームもあるから、若い世代(若い世代とか書くようになってしまい、自分がおっさんになってきてるのを痛感してしまった…)にも昔の作品のキャラや歌に触れる機会が増えてるのは、入り口としてはいいなと思うけど、作品見てもらえないのはなんかもったいないなと思ってしまうんですよね。dアニメやアマプラとかの動画配信サービスあるんだし、見た事無いのを見ないじゃもったいない。ぼく自身も見た事無い作品はたくさんあるから、そこは自戒的な念もこめつつ…
ロボットアニメと言えば、ほとんどの人が知ってるガンダムシリーズがあるんだけども、なんせ作品数が多い。見たシリーズもあるけど、OVAや劇場版も含めたら見ていない作品数の方が多い。実はぼくはそこまでガンダムは見ていない。別に嫌いじゃないし、ガンプラも子供の頃は作った。でもぼくの中ではガンダムよりもマクロスの方が圧倒的に好きだったりもする。自分の感覚だからこれが正しいとも思っていないけど、ガンダムは一般的、マクロスはオタク向けな感じで受け取ってしまったのがなんとなくぼくの中ではあるからだと思う。
マクロスシリーズは基本的に初代の話から何年、何十年後という形でストーリー展開されていくので、リン・ミンメイの名前やFire Bomberの名前が出てきたり、前作や旧作の子孫が出てきたりする作りになっているという、その辺が魅力だったりもする。
マクロスって、アニメのタイトルにもなってるくらいだから、メインで出てくる飛行機が変形してロボットになるのがマクロスって思ってる人は多そう。というか、実際多い。そりゃそうだ、ガンダムシリーズは機体の名称がガンダムだからそう思うのは普通。ボトムズはスコープドックなんだからタイトル=機体名とは限らないって言う人はたいていマクロスも見てるロボアニメ好きだから、そういうめんどくさい人は放っておく。ロボットアニメって聞いて、ガンダムやマジンガーくらいが思い浮かぶ人にとってはそう思うのも当たり前。
これらの機体はバルキリーと言われるもので、
バトロイドモード(人型)ファイターモード(飛行機型)ガウォークモード(飛行機から手と足生えてるモード)と、3つの形態に変形ができる機体であり、これはマクロスではない。VFシリーズとかYFシリーズとかいっぱいある。しかし、初めてガウォークモード見た時は衝撃だったな(笑)じゃあマクロスって何?って言うと、超時空要塞なのである。つまりバカでかい戦艦。
このバカでかいのがSDF-1マクロス艦。どんだけバカでかいかというと、中に地球人の居住区があって、一つの街のような物が形成されてる全長1200mの巨大宇宙戦艦。これも変形するし後々のシリーズでも別の機体のマクロス艦は出てくる。
とりあえず、ここまで読んでよくわからんて人はブラウザバックでいいと思います。
今回、別に一作ずつストーリーについて大きく解説したりするわけでもないから、その辺知りたい人はアニメを見るなり、wikiを読んでみてくだちい。
とりあえずざっくりと、マクロスを説明すると、初代マクロスで宇宙進出していった地球人がゼントラーディという宇宙にいる巨人な戦闘民族と戦い、その後和睦し、宇宙を開拓するために子孫がどんどん宇宙に広がって行きそこで起こる様々な戦いを描いているというのが全体のストーリー。そして、全部の話に歌が関わっていて、歌の力などで敵と戦ったり、主人公とヒロイン達との恋の三角関係ってのが、マクロスシリーズの伝統で、それは基本的にどの話にも見られる(マクロス7はちょっと特殊枠)。
説明めんどくさくなってきたから、マクロスシリーズのwiki見てくれさい。
ぼくは1984年生まれなので、マクロスとはほぼ同級生。マクロス作品で言えば、最初の劇場版「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」と同級生。そりゃぼくもそろそろ40歳がチラついてきてるわけだ…つらい…
なので、当然初代のテレビシリーズは後年見た、もちろん愛おぼも。これから書く話は、ぼくが見てきたマクロスの順番に基づいて書いて行くので、マクロスの放映順だったり、世界線の時間軸の話ではねーです。
そんなぼくのマクロス初体験は1994年のテレビ作品「マクロス7」
OVAのマクロスプラスも1994年作品なんだけど、10歳そこそこの普通の家庭に育ったぼくはOVAを見れる環境でもなかったため、マクロス7しか当時は見ていなかった。日曜日の昼前、ニチアサアニメと言うには気持ち少し遅い時間だったけど、小学生男子にとってはロボットアニメはワクワクする物で、必然的に見ていたんだけど、このマクロス7、ちょっと作品としては特殊枠扱いされがち。主人公の熱気バサラがバルキリーに乗って戦場に飛び込んで行ったかと思えば「俺の歌を聴け〜!!!」と叫び、バルキリーに装備されている銃からスピーカーを敵機体に向けて打ち込み、いきなり歌い始めるかなりヤベーやつだった。間違ってミサイルを発射してしまった時なんか「どうしてこんなもん装備しやがった!」と、メカニックを担当してる仲間を本気で責めるという、とにかく戦わないで歌で宇宙全部を平和にしてやろうという気持ちだけでバルキリーに乗ってる熱い男で、普通のロボットアニメを期待して見た者にとってはかなりめちゃくちゃに見える。
当時、ガンダムシリーズでは機動武闘伝Gガンダムなる作品が平日の夕方に放送されていたが、このGガンダムもガンダムシリーズの中では特殊枠で、ガンダムに乗って格闘技をする、操縦方法もラバースーツみたいなの着てコクピット内で動き回り、格闘する。なんなら、めっちゃ強いキャラは素手でモビルアーマーを破壊するとか、これもとにかくむちゃくちゃだった。
とはいえ小学生男子にとっては、バルキリーがガキーン!って変形したり、宇宙を飛び回ったり、敵と戦ったり(バサラ以外)、ガンダムが格闘をしたりする作品はめちゃくちゃ面白かった。ガンダムは予備知識的に、初代ガンダムやZガンダム、F91、ポケットの中の戦争とか知ってたから、格闘するのは斬新だったけど、10歳の感覚からしたらめちゃくちゃ面白かった。多分、今の感覚で見たらめっちゃ批判してる気はするけど。なので、この2作品は幼少期のオタクではなかった自分がしっかり一話から最終話まで見た作品になり、マクロスとガンダムのスタンダードな作品として位置づけられてしまい、後年温度差で風邪引くかと思った。ちなみに、マクロス7の放映終了が1995年で、95年にはエヴァが放映されるわけだけど、エヴァを見てかなりの温度差に振り回されたのは言わずもがな。
とにかく、マクロス7は衝撃的だった。戦わないで歌を歌いながら戦場に突っ込んでく熱気バサラの姿は最初数話こそ「戦ってるとこに歌いに飛び込んでいって邪魔すんなよ!」って思ったりもしていたし、いつも歌ってる歌が「突撃ラブハート」ってタイトルなのクソダセーって思ってたし、バサラのバンド名がFire Bomberなのもダサいと思った。10歳の少年がダサいって思う要素が結構あったのに、なぜ最後まで見て、なおかつ今では一番好きなマクロス作品がマクロス7なのはなぜかと言われると、とにかくそれまでダサいと思ってた要素が途中から全部カッコ良く見えてきたからだった。特別、作品内で何かあったわけでもなく、ストーリーが進んでもバサラはバンドメンバーの言う事も、敵の言う事にも全方向からの話に耳を傾ける事もなくただひたすら戦場に突っ込み「俺の歌を聴け〜!!!」ってバカみたいに歌ってるだけだった。でも、その一貫してブレないバサラがめちゃくちゃカッコ良く見えてきた。
さらに、バサラはマクロスシリーズの伝統である主人公とヒロイン達の三角関係なんてものは全然関係ない男だった。バンドメンバーのミレーヌ(超可愛い、超好き)や、バサラのファンの花束を持った少女、敵宇宙人のシビル、劇場版のエミリア、OVAのエルマと、常にヒロインが出てくるのに一貫して「俺の歌を聴け〜!!!」のスタンスを崩さない。俺の歌以外には興味がないぜというスタンス。そこがカッコいいんだけども。OVAのしょっぱなでも、銃撃戦をしている所に生身でギターを持って走って突っ込んでいき「戦争なんかくだらねぇぜ!!!俺の歌を聴け〜!!!」という名台詞を発する。あれは痺れた。反戦を歌ってるわけではないので、その辺はハードコアパンクやヒッピーとは大きく違う。政治的な意図や意思はバサラにはまったくない、ただ歌を聴いてくだらない戦争はやめろ!とそれだけの思いで歌ってるやべーやつなのだった。最初は目立ちたい一心で「俺の歌を聴け!!!」(ジャイアンの空き地リサイタル的な)と言ってるのかと思っていたが、「戦ってる手を止めてまぁ俺の歌でも聴いてくれよな!」くらいの感覚のものだったというのは、見ていくうちに理解した。そして、ぼくは一気にマクロス7のファンになった。マクロスシリーズのみならず、こんなアニメは他にない!と思ったから。
ただ、残念なことに同級生でマクロス7にハマっていたやつは誰もいなかった…
そんなこんなでマクロスという作品がある事を知ったぼくは、マクロス7を見てから9年後、19歳くらいのフリーターな時期、ちょうどアンダーグラウンドのパンクシーンに身を投じた頃、暇な時間も多かったので、初代マクロスをついに見た。
この頃には多少のアニメ知識も身についてきていたので、エヴァの監督でおなじみの庵野氏がアニメーターとして参加していたことや、マクロスのアニメーターの板野一郎氏が「板野サーカス」いう後年のアニメには欠かせない作画技法を生み出したことなど、ふんわりと知識として持っていた。
ミサイルが煙を吹き出しながら敵を追撃する様子の作画を板野サーカスと勘違いしてる人が多いのだが、高速で動く物体を、高速でカメラが追いかける空間演出の作画技法が板野サーカスなので、そこ間違えないように。テストに出ます。板野氏も「ミサイルが一本でも二本でも、流れが綺麗なら板野サーカス」とおっしゃっています。
まぁそれは置いといて、初代マクロスはマクロス7の感覚で見始めてしまったから、なんか色んな衝撃におそわれながら見てた気がする。話としては地球人VSゼントラーディ軍の戦いというのはすぐわかる。ゼントラ語も特徴的で、戦う以外の文化がなかったゼントラーディの兵士が地球の歌の文化などに触れて「ヤック・デカルチャー!(なんとおそろしい!)」なんて言うのも見ていて面白かった。
話の本筋的な部分は全然いい。後半の「この話いる?」みたいな話数も別にあっていいと思う、むしろ必要。ミンメイが歌手になってドサ周りする話だってあっていいじゃない。エウレカセブンだって「チームワークを深めるためにフットサルやるぞ!」なんて、話の後半にさしかかる頃になってやってたくらいだし。無駄がある方が、アニメなのに人間臭くていいじゃない。
じゃあなにが凄く衝撃的だったかというと、とにかく作画がすごかった、悪い意味で。ぼくが見たのは再放送版のフォーマットになるものだったので、かなりの修正がされてはいたものの、それでもすごかった。止め絵、キャラデザの崩壊、シーン内でのバルキリーの機体の色がかわる…などなど。本放送時の11話がとにかくひどかったのは有名なんだけども、まだ未視聴なのでいずれ見たいと思っている。特典で収録されてるようだし、DVD-BOX欲しいな…
テレビ版は、作業現場そのものが崩壊し作画スタッフが逃げ出したり、スタッフの乗っていたタツノコプロと書かれた車が街中に無人で放置されていたりだとか、とにかく凄かったらしい。当時大学生だった庵野氏が作画スタッフとして駆り出されたとか(この辺の話は島本和彦先生のマンガ「アオイホノオ」でふんわりと書かれてる)、現GAINAX取締役の山賀氏(山賀氏も当時学生もちろん素人)に、絵コンテを描かせたり演出をやれって仕事を投げたり、スタープロという韓国の外注に発注したら、何が描いてあるかわからない絵があがってきて板野氏が激怒して大暴れ、その結果怪我の功名的に板野サーカスが生まれたとか、その辺のエピソードは語りぐさにもなっていて、ぼくよりもよっぽど詳しい方々がたくさんその辺の話はまとめ記事にしたりもしているので、興味があれば「マクロス スタープロ」とかで検索すると面白い話がたくさん読めたりする。
そんな過酷なギリギリまでやる制作現場を経験した、庵野氏、山賀氏、貞本氏など、初期のGAINAXの精鋭達は、それをスタンダードと思ってしまったのか、ナディアやエヴァなんかも常にギリギリで制作してたという…。
それくらい過酷な現場だったのが、テレビ版マクロスの画面からはひしひしと伝わってきて(それでも修正された再放送版なのに)、なんか違う意味でハラハラしながら見た記憶もある。ところが、劇場版の「愛・おぼえていますか(通称愛おぼ)」に関してはとにかく作画が神レベルだった。TV版のリベンジという思いもあったようで、制作スタッフの仕事の緻密さが際立っていて、今でもその作画の素晴らしさは語られているわけですが、そりゃ作画監督に板野一郎さん、美樹本晴彦さん、平野俊弘さん、原画スタッフに庵野秀明さん、北久保弘之さん、木上益治さん、中村孝さん、結城信輝さん、森本晃司さんなどなど他にもたくさんの現在もアニメスタッフとして広く名前を知られているオールスターの様な布陣で挑んでるんだから、作画がすごくて当たり前だというレベル。
80年代のアニメは、当たり前だけど手描きで制作されているので、CGのような無機質な均等感は全然なく、作画スタッフの力量やクセなんかが画面を見ただけで視覚的に情報としてガッと飛び込んでくる事が多い(悪く言えば、同じ作品内でバラつきが出る事がある)んだけど、愛おぼは最初から最後まで高水準のまま均一で、絵のクオリティ、動きの演技、演出と、最後までため息が出るレベルの作画だった。愛おぼとマクロスプラスはマクロスシリーズの中でも群を抜いて作画レベルが高い。
アニメの作画がいいって話は個人の主観に寄る所もあるから、当然好みもあるし、どの作品が一番凄いって決めるのも無駄な議論になあるとは個人的に思っているので、それは各々が感じた物でいいとは思ってるんですけども。
近年の作品だと「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が作画がいいという事でよく名前が挙がるし、昔の作品だと「AKIRA」の名前が挙がる。両作品ともぼくは大好きで何度も見てるし、何度見ても線の美しさやキャラの演技(動き)、見せ方の構図などには圧倒される。本当に作画がめちゃくちゃ素晴らしい。他に、GAINAXの初期作品「王立宇宙軍 オネアミスの翼」のロケットが飛ぶシーンなんかは初めて見た時に実写を見てるのかと錯覚するぐらいにめちゃくちゃ凄いと思った。メカアクションだと、今石洋之さんや吉成曜さんが参加していた「FLCL」はとにかく爽快感がすごく秀逸、この作品がぼくがアニメーターオタクになるきっかけでもあった。「アイドルマスター」のライブシーンでの手描きのダンスの作画もクオリティがめちゃくちゃ高い、髪の毛の先まで動いていたり、動く度に汗が飛ぶ様子など、ダンスシーンだけCGにしているアイドルアニメはダンスの所で急に無機質になって気持ち悪さを感じる時があるが、アイマスは絵に暖かさがある。「鬼滅の刃」や「呪術廻戦」の作画がいいと最近では結構言われている(もちろん良いと思っている)が、近年のアニメ作品全体の求められているクオリティ水準が上がってきているなか、絵がキレイな話題の作品だけを見て「作画いいね!」とか、少し絵柄が崩れたくらいで「これ作画崩壊だよ!」なんてしたり顔で言ってる人を見るとモヤモヤするので、作画のいいアニメとかで検索して作品調べて色々見てほしい。
キレイなだけの絵は、絵の上手い人だったら描ける物だと思っているので(ぼくは描けないくせにえらそうに言ってる)、そんなにキレイな絵のアニメを見たいんだったら止め絵の多い作品を見ていたらいいと思う。そんなのは全然アニメーションとして面白くないと思うけど。先日惜しくも亡くなられてしまった、ルパンシリーズやジブリ作品などでお馴染みだった大塚康生さんが「アニメーターは演技者だ」という事をおっしゃっていて、その言葉を知ってから、アニメはアニメーターさんの描く演技や演出に注目して見るようになり、そこでぼくの中の作画の良い・悪いの判断基準は大きく変わった。
このように、作画クオリティに言及される事も多くなってきたからこそ、やはり愛おぼ、マクロスプラスは未視聴の人には絶対に見てほしい作品だったりもする。
愛おぼのラストシーンでリン・ミンメイがタイトル曲でもある「愛・おぼえていますか」を歌う約6分ほどのシーンは曲の良さもあいまって、パブロフの犬状態で何度見ても目頭が熱くなる。
この曲は後年のマクロスシリーズでもヒロインが歌う曲として歌い継がれてるので、近年のマクロス作品から入った人でマクロスファンだと言いつつも未視聴の人はマストで見て欲しい。
愛おぼを見て、マクロス=作画がすごいという認識になったぼくは、評判が高かった「マクロスプラス」を見て、さらに衝撃をうけた。
先ほど載っけたGIF画像の「伝説の5秒」が見たくてOVAを借りてきた。すると、OVAには伝説の5秒のシーンは収録されておらず、収録されている「マクロスプラス MOVIE EDITION」をその後借りてきたという、マクロスあるあるな凡ミスをしてしまったのだけども。OVA版も作画は凄いので見て損はなし。
「伝説の5秒」に軽く触れると、5秒間のカットの中で、116枚の原画が使用されており、その描写がとんでもないということ。たった5秒のために116枚。普通のアニメなら、秒間24フレームなので、一秒間に8枚、5秒なら40枚程の原画で済む所を、その3倍の量で描いているという常規を逸したシーンなのである。その予備知識を持っていて見たからこそ注視して見ていたが、特に知識もなければあっという間に見逃してしまう秒数のシーンでもある。気になる人は「伝説の5秒」で検索すれば抜粋したシーンの動画とか出てくるから、それ見てもいいと思う。
時代的にはCGがアニメ制作に導入されている頃なので、プラスも7もCGを使ってる部分は見られるが、基本的にはほとんどメインの作画は手描きなので、職人技のようなものを感じる。
マクロスプラスはマクロス7と同時期に制作されていた事もあるので、比較されやすくもありつつ、両極に位置するような作風でもあり、派手にファイヤー!してるマクロス7とは打って変わり、終始シリアスにバルキリーのドッグファイトや人間関係を描いていたのがマクロスプラスなので、この対比も凄く面白い。シリアスな人間関係や、戦闘機の派手なアクションなどの作品が好きな人には一番オススメな作品。
そして、マクロスの黒歴史と言われていたマクロスIIを見た。正式なタイトルは「超時空要塞マクロスII 〜LOVERS AGAIN〜」
この作品はマクロス10周年の時にOVAが制作されたマクロス作品としては2作目にあたるものでしたが、初代マクロスの超主要スタッフでもありバルキリーのデザインをしていた河森正治さんが参加せず、最初に制作にあたったスタジオぬえも担当しておらずAICが制作した事や、設定が初代から80年後で現在までのマクロスシリーズでもまだ到達していない未来の話すぎて、後のマクロス作品が世に出てきてから、世界線が違いすぎるなどの理由から、黒歴史扱いされてたりもするちょっと寂しい扱いの作品。その後バンダイビジュアルが「なぜマクロスIIはマクロスの黒歴史と言われるのか」といったコーナーをサイトに設けてネタ化したりもしてた。
ぼくも見るまでは、その前情報に踊らされており、あまり期待せずに見たんだけども、作画はいいし、シリーズの基盤となる三角関係の話もあるし、何より楽曲がめちゃくちゃよかった。マクロスに限らず、色んな作品の続編で批判を受ける事も珍しくなく、その批判は全体の1割であっても目につきやすかったりするもの。そして今でこそあまりめずらしくないOVAという、購入した限られた人のみが見る事が出来るフォーマットが、一般層にまで届きにくかったこともあってか、一部の意見の「マクロスIIは面白くない」と言った発言が「マクロスIIは面白くないから見るもんじゃない」と言うように変化していき、見ていない人にもそのように曲解されてしまい、見てない人が鵜呑みにしてわいわい言ってるだけだったんじゃないかとすら思った。
初代マクロスを終えた後、河森さんが「今後マクロスの続編には関わらない」と言っていたため、マクロスIIには参加していなかったが、意外とかなり売れたこの作品から、マクロスファンの続編への期待が高かったのもあり、この作品があったからこそ、河森さんもマクロスシリーズに復帰し、マクロス7やマクロスプラスが制作されたので、この作品はあって然るべきなんだと思う。
原画の面では5話での大張正己さんの作画が見所とも言われていて、たしかにアクションシーンが素晴らしかった。当時はテッカマンブレードの後で、初期のマクロス作品の割には大張さんの雰囲気があるスタイリッシュなメカアクションだった。勇者パースや、サンライズ立ちなどと呼ばれている作画技法を生み出したロボットアニメの大御所アニメーターの大張さんが参加しているというだけでも、ロボットアニメ好きには見る価値があると思う。ちなみにぼくはコミケの時に勇気を振り絞って大張さんに話しかけ、サインをいただいた事があるのだが、すごく物腰のやわらかい紳士で、よりファンになった。
とにかくこの作品はもっと評価されていいとぼくは思っている。
そして、マクロスF。正式タイトルは「マクロス Frontier」
マクロス25周年記念作品でもあり、マクロスシリーズが再び世に広く出てきた作品で、パチンコやスロットも大ヒットし、未だファンが多く存在してる作品。これをきっかけにマクロスにハマった人も結構多いんじゃないかと思う。当時、ニコニコ動画では踊ってみたという動画が流行っていて、それまでアイマスか東方が強かったニコニコ動画内で一気に人気になったコンテンツだった。特に、ヒロインの超時空シンデレラことランカ・リーの曲「星間飛行」はすごい流行ってた、みんな踊ってた。☆(ゝω・)vキラッ
今までのマクロスシリーズではバトロイドに変型したバルキリーは少しもっさりとしたデザインだったのが、マクロスFからはシュッとしたデザインになってるのも、最近のアニメ感がある。板野サーカスなどの技法も継承され、歌や三角関係などの伝統もそのまま継承。バルキリーや敵生物のバジュラはCGで描かれているのも今までと大きく異なる作り。25周年作品とのことで、仮タイトルが「マクロス25」だったらしく、今作で出てくるマクロス艦の名前がマクロスクォーター(100の1/4は25)など、25にまつわる名称なども出てくる。
ランカの兄のオズマがFire Bomberの大ファンで車の中で曲を聴いていたり、銀河の妖精ことシェリル・ノームがライブを始める前に「私の歌を聴けっ!!」って叫ぶのとか、マクロス7からの影響(と言うか、バサラの影響)が結構ある描写が、作品がつながってる実感があり、その辺りの演出はファンとしては、かなり嬉しい物だったりもする。
マクロスファンの中でも、F以前・F以降と言われたりもしてるので結構ターニングポイント的な作品だったと思う。キャラ萠えという要素も広く定着してきた時でもあったので、わりとキャラに焦点があたる事も多く、歌に関してはかなりの楽曲があった。楽曲のクオリティは高く、アニソンの枠にとどめておくのはもったいないという曲も多い。その頃、ランカ役の中島愛のコンサートなんかは倍率がめちゃくちゃ高くて当然チケット取れなかったんだけども、当時の職場の先輩で、なぜか物凄く羽振りのいい人が高額のチケット買って見に行った事を自慢されて羨ましかったのを覚えてる。
Fはその後劇場版も作られ、テレビ版では戦いを終えた主人公アルトが帰還してヒロインのシェリルとランカどっち選ぶの〜!みたいなほのぼのした終わり方とは違い、結構しんみりした終わり方だったのが、印象的だった。
OVAの「マクロスゼロ」を見ると、マクロスFの作中のあれやこれやがより理解できて楽しめたりもする。
マクロスゼロは20周年記念作品なので、Fの制作よりも前に作られているが、この時期から3DCGをふんだんに使うようになっているという点にも注目して見れる。マクロスゼロは初代マクロスの1年前(正確には8ヶ月前)が舞台なので、初代の登場人物が出てくるが、作画というかキャラデザが全然違うので、初めて見た時は少しとまどったりもした(笑)他の作品と違って、目に見える大きい敵と戦うという設定ではなく、人類創世の話など神話を基にしたスピリチュアルな話の作りになっているので、マクロスFの中では劇中劇として神話的な扱いになってたりもする。神話的な扱いでもあるんだけど、ヒロインのマオ・ノームはマクロスFのシェリル・ノームの祖母であったりもするので、マクロス内の年表を見るとかならずこの作品は関わってくるためマクロス好きな人は見ておくといいと思う。ぼくはFを見た後でゼロを見ているので、その辺は理解しやすかった。
そして、最新シリーズの「マクロスΔ」
雰囲気的にはマクロスFを継承していったようなスタイリッシュなバルキリーのデザイン。今までの歌要素をさらに強化した作品で、ワルキューレという歌ユニットが登場。アイマスやラブライブ!といったアイドル物が成功したアニメ業界でもあったためか、結構アイドル成分高い。サブヒロインが増えまくった…
個人的にこの辺の要素が結構キツくて、せっかく3DCGで激しい動きが描けるようになったんだからバルキリーのドッグファイトがたくさん見たかったぼくとしてはその辺の要素はちょっと物足りなかったりもした。描かれてはいたんだけども、個人的に少し足りなかった。アイドルアニメは好きなんだけど、それはそれ。マクロスはマクロス。人数が増えすぎて、デルタというタイトルから期待する三角関係よりも多くの人間関係が見えてしまって、名前負けしてないかと思いながら見ていた。
といっても、マクロスF以降のファンにはΔは受け入れやすかったみたいで、こちらも大人気作品となり、劇場版も制作され、今年2021年にも新作映画が公開される事になってる。
と、ここまで結構がっつり書いてきて、自分でも何が言いたいのか、最早わからなくなってきているんだけど、マクロスという作品は数あるロボットアニメでもぼくにとってはかなり重要な作品。最近よく遊んでいるマイキーさん(EXTINCT GOVERNMENT)と、初めてちゃんと話をした時にマクロスの話になり、お互いマクロス7が一番好きだと言う部分で意気投合。ことあるごとにマクロスの話をしているし、マクロスモデラーズとしてマクロスのプラモを作っているマイキーさんを応援してたりもする。今年の作品も楽しみですな。
長くがっつりこう言うの書く時って、書き始める時には意欲がめちゃくちゃあるんだけど、いざ書き始めたらまとまりが悪く感じるし、落としどころがわかんなくなってくるんだよなぁ(笑)文章書くの好きだから、その辺もう少し上手くならないと。
なんにせよ、好きな物への興味・探究心はつきないもので、マクロスを見始めて四半世紀、まだまだ好きになっていくし、自分では全然知識が足りないと思ってるので、もっとどん欲にどっぷりと沼にハマっていくのもいいのかなと。
バルキリーだけじゃなく、様々なメカの名称や機体名や型番なんかはガッツリしたマニアの人達はすぐにパッと思い浮かぶわけだけど、ぼくなんか有名な機体とかじゃないとすぐに浮かんでこない。そういうとこも極めていってこそのオタクなんじゃないかなと、最近オタクの本分を改めて考える事もあるので、その辺をなんとかしていきたいな〜なんて思ってたりもする。それに、マクロスが好きとは言え、ここまで語るようなブログを書くのもおこがましいような気がしてるので(こんだけ長々書いておきながら)、もっと熱量を持ち知識を深めマクロスという作品と対峙せねばとも常々思うわけです。
とりあえず、マクロス好きな人でステーキを見て「柿崎ぃ〜!!!」って言う人は信頼してます。
これ読んで、マクロス気になってマクロス見たって人が出てくるといいなー。そんな影響力はぼくにはないんだけども
おわり
思い出し日記的なやつ【その7】
どーもぼくです。
思った程写真が見当たらなくて困ってます。2004年〜2005年当時はまだスマホなんてなくて、ケータイのカメラもまだそこまでの機能じゃなく画質も荒かったり、保存出来る容量も少なかったりとかしてたから、みんな写ルンですとか持ち歩いて写真撮ってたんだけどな。ということで、昔の写真とか持ってる人いたら見せて欲しいです。今載せてる写真の大半はスティーヴンというアメリカから日本に来てた、日本の変なカルチャーを紹介するTOKYO DAMAGE REPORTって個人ブログをやってたサイトに載ってた写真を、以前保存してた物を拝借してます。そのサイトも数年前に閉鎖されちゃったとかで今見れないっぽい。スティーヴンは自分の事を「害人」と呼称し、キャップに漢字で「害人」と書いてた。日本語が上手くてすごく人が良く、結婚式場で神父のバイトしたり、日本にいる外国人に日本語を教える仕事してるって言ってた。日本に来た理由は、日本にいればASSFORTのライブが見られるから。革ジャンの背中には鋲でキティちゃんの顔を形作ってたりしてて、パンク界隈のみならず、都内のサブカルシーンではそこそこの有名人だった。
意外にも、このブログが好評いただいてるので、もうちょっとちゃんと頑張って書こうと思って色々思い出したりしてて、そうだ、mixiがあった!と思い、mixiに数年ぶりにログインしたんですけど、2006年頃に始めてたので、今書いてる時期の情報はほじくり返せず、一生懸命記憶をほじくり起こしてるとこです。SMASH COCKS解散後の話からはmixiをフル活用してやる。
では、続き書きます。その前に、前回までのお話じゃよ。
↓ここから今回のお話。
前回のブログでは、SMASH COCKSが初ライブをした直後、ベースのノリタカが、ちょっとコンビニ行くくらいの感じで「俺バンド抜けるわ!」と言って辞めてしまったとこで終わり。初ライブを終えたばかりでこれからというとこで辞められてしまうのは困るんだけども、意外とメンバー全員そこまで焦りを感じてなくて、みんな心のどこかで「こいつそのうち辞めそうだな…」みたいに思ってたのかもしれない。面白いヤツだったし、嫌いじゃなかったし、仲が悪いわけでも、ぼくらが薄情だったという事でもなかった。なんとなくそういう空気感のある男で、その時が思ってたよりも早かったというだけだったw
ところで、前回のブログには初ライブのフライヤーとか無いって書いてたんだけど、なんか色々探しまわってたら見つけました。
2004年6月13日の4SPiKES & BOOB$ $HIT企画、at 池袋マンホール
IKEBUKURO BEERning vol.2でした。
なので、話の続きを書く前に、そのライブにまつわる話を前回のブログに追記というような感じでちょっと書いていきます。
この頃、池袋では、IKEBUKURO BEERningと言う企画と、HOLIDAYS IN THE SUNSHINEという企画があり、どちらも4SPiKES主導だった気がする。BEERningは4SPiKESとBOOB$ $HITの共同企画。
みんな、ポゴパンクやる〜!ってなってた中で、POGO PUNX同様にめちゃくちゃ派手な見た目をしつつも、ノイズコアをやってたBOOB$ $HITは他のバンド達とは一線を画すカッコ良さがあった。ドラムのイワタ君(現THE ノーフューチャーズ、Killer Queen)はぶっ飛んでるようで実は結構しっかりしてるのに対し、残りのメンバーがみんなそろって愛すべきバカ達だったのがバランス取れてた気がする。フロム川越の気のあう4人組がバンドやってるってな感じで。
余談:オシャレヤンキー感のある現在のイワタ君(IWATA JAPAN)しか知らない人には新鮮かもしれないけど、当時のイワタ君(DICK IWATA)はモヒカンで、それがすげー長くてめちゃくちゃかっこよかった。ライブ終わる頃にはモヒカンもすっかり倒れて假屋崎省吾みたいな見た目になったイワタ君は、鋲ジャンに髪の毛が絡まり「うあ〜マジで髪うぜぇー!」ってよく言ってたwあと、かっこいいからって理由で、4連のピラミッド鋲リストバンドを3つ(計12連)とか重ね着けしてて、手が動かしにくいとか、革ジャン着れねぇ!とか言ってた。ノーフューチャーズ始めてからモヒカンを切った事は、内々でかなり衝撃的なニュースとして広まったりもしてた気がする。なんでモヒカン切ったの?って聞いたら「いや〜、やっぱ時代はジョニー・ロットンっしょ!」って、オシャレなヴィヴィアンのスーツに身を包んで言っていたが、そのときアフロみたいな髪型してたから、どちらかと言えばマルコム・マクラーレンっぽかったwその辺のセンスというか、感覚がイワタ君独自な感じがして、すごく好き。出会った頃から、今にいたるまでめちゃくちゃカッコいいんだよな〜。
この企画の時に初めてPIG FOOD(群馬)と対面。「うわ〜、北関東POGO ATTACKのバンドの人だ〜!」と、ちょっと身構えていたら、石けんで髪を立ててる最中のマモル(Ba.&Vo.)が石けんベタベタの手で「よろしくね〜(満面の笑顔)」と握手を求めてきたのが未だに忘れられない。もちろん握手は拒んだ。そして、今PIG FOODとCOOKING CASPERでギターを弾いてるイッシーを「あ、これイッシーね、俺の付き人だから!」って紹介された。イッシーは当時DEAD MOUSEってバンドやってた。そのバンド名出すと恥ずかしがるから、イッシーにDEAD MOUSEって言っちゃダメだよ、ダメ絶対。PIG FOODのギターのタケボーはしゅっとしたイケメンだったんだけど、何本かネジが抜けてる感じにホワホワしてて、すごく話しやすかった。トロージャンが印象的なドラムのケイワは完全に頭のネジが無かった、人畜無害なんだけどヤベーヤツだった。
PIG FOODの名曲「FULL SET FUCK OFF」は、ケイワがライブのリハの時にPAさんから「じゃぁフルセットでドラムの音ください〜」って音求められた時に、フルセットで叩けなくてムカついたからって事で出来た曲らしいwぼくはこういうしょーもない事にFUCK OFFって言ってるようなPOGO PUNKのバンドが大好きなんだよなー。
PIG FOODとはその日、すぐに打ち解け、またマモルがカオリの事をえらく気に入り、それもあってその後足利BBCでのPIG FOOD企画に呼んでもらう事になった、この話はまた後日。この時に、北関東の、おもに足利周辺のバンドの人達とのつながりが出来たんだけど、ぼくは北関東の人達の暖かさみたいな物が大好きで、今でも会う機会があると凄く嬉しくなる。
この当時の北関東のバンドはいわゆるPOGOやSTREET PUNKなんだけどもそれぞれが独特のセンスを持ってるバンドが多かった。THEパンパ〜ス(栃木)、ROTTEN BEANS(茨城)は今やカルト的な伝説のVA、北関東POGO ATTACKでPIG FOODと一気に有名になってたが、他にもGame Boi!s(茨城)や、DAMAGING NOiSE(茨城)、GARAKUTA(群馬)、現在も活動してるCOOKING CASPER(足利)など、若い世代のバンドが、なんか面白い事してやろう!みたいな感じで、ライブにデモ音源リリースに、結構精力的に活動してる時期でもあった。北関東の人達なんだけど、POGO MACHINEのライブがあると都内でしょっちゅう見かけたから、いつもいる人達っていう感覚があった。
この日の出演バンド、NO EVACUATiONSとTHE CHILDiSH PRANKは、年齢的にぼくと同世代なんだけど、どちらも勢いがあるバンドで、見ていて「負けてられないな〜」という気持ちよりは「すごい良いバンドいる、やばいやばい」という焦りを感じてしまった。
チャイプラでベースを弾く現・経血のドラムで悲観レーベルのツトム君。去年久しぶりに再会して、積もる話に花を咲かせたり出来て嬉しかった。
TOiSRUSは名前の通り、がちゃがちゃしたオモチャみたいなPOGO PUNKのバンド。TAKA-44がオモチャ好きだったってのもあってこの名前だったんじゃなかったかな?ボーカルのSHO君(2連モヒカンがいつも倒れて落ち武者みたいになってたから、落ち武者って呼ばれてた)は車の塗装工をやってたかなんかで、エアブラシ使って鋲ジャンをペイントしてたんだけど、それがめちゃくちゃクオリティ高くて凄いかっこよかった。メンバーに、タマ君もいた。短命だったけどすごくカッコいいし、見ていて面白いバンドだった。
今聞いても、落ち武者SHO君が何を歌ってたか全然聴き取れないのくそ面白い。
とにもかくにも、新しいメンバーを見つけないと話にならない。というわけで、今は無き、魔法のiらんどで作っていたホームページのトップにベーシスト募集の告知を書き、他のバンドのホームページのBBSにもメン募の告知を書き込みさせてもらった。曲も数曲は固まっていたから「ベース募集中、ある程度弾ける方だと嬉しいです」みたいな事書いていたら、誰だったか忘れたけど身内から「そういう書き方は人選んでるみたいで、見て気分悪くする人いるかもよ?」みたいな事をチクッと言われて、「こっちは切羽詰まってるからそう言う事いちいち言ってくる方が気分悪いわ!」とかそういう文句をまちゃんと言ってたのを覚えてるw
ひとまず、メン募は出したけど、そう早くに見つかって決まるもんでもない。かと言って何もしていないのも落ち着かないのでスタジオには入る事にしていた。そしたら、TAKA-44(現T&BB)が「そんなに難しくなければベース弾けるから、メンバー見つかるまでスタジオの練習の時一緒に入ろうか?」って言ってくれて、実際にスタジオに来て何回かベースを弾いてくれた。TAKA-44はこの頃TOiSRUSを始めたばかりの頃で、忙しかったりしたのもあり、そんなにがっつりとは頼めないなと思っていたけどなんだかんだ毎回朝10時のスタジオに来てくれて、まだまだドラム初心者のまちゃんにドラムを教えてくれたりもして、新しいメンバーが見つかるまでは結構有意義な時間の過ごし方をしていた。この時期はなんだかんだ毎週の様に誰かしらと顔をあわせてたような覚えがある。
とある日のKAORi-CATさん。鋲ジャンの袖にほぶらきんの布パッチ貼ってた。
メン募効果は意外にもすぐ効果を発揮して、募集を出してから1ヶ月ほどで連絡がきた。身内感の強い池袋界隈のバンドだったから、知ってる人から連絡くるのかと思ってたけど、意外にも誰ともつながりが無い人からだった。「ベース弾けるし、バンドやりたいと思って」というようなメールの内容だったので「とりあえず、一度メンバーに会ってみますか?」と言う話になり、トントン拍子で話が進み、スタジオに入る事に。
スタジオに現れた彼は「加藤です、下の名前がマサフサでまっちゃんとか呼ばれてるんですけど、すでにメンバーにMAッチャンがいるんですよね?」という事を言ってたので、とりあえずカトチンと呼ぶ事に。名前にチンが着くの、ぼくと被るけどそれはいいのか…カトチンはカオリと同い年とかだった気がする。だからぼくの1個年上だったかな?カトチンはジャパコアが好きで、8000(静岡)のホームページで8000番のキリ番を踏んだ記念にもらったという8000のパーカーを着ていた。見た目は金髪で、なんかおっとりしたとこがあって、第一印象は全然悪くなかった。
カトチンは、秋田から出てきてたばっかりで、バンドやりたいけど知り合いもまだいないしどうしようかなと思ってた所、たまたまSMASH COCKSのホームページに辿り着き、メン募をみかけたからメールしたとの事だった。「あの募集の文章って、見てて気分悪い感じだった?」と聞いたら「え?何が?」みたいな反応。ほれ見た事か。
んで、まずはベース無しの状態だったか、TAKA-44に弾いてもらったんだかは忘れちゃったけど、今やれる曲をカトチンの前でやってみて、弾けそうか聞いてみたら「大丈夫」との返事で一安心。
ふとカトチンが着ているTシャツに目が行き、気になったので聞いてみた。
「そういえば、今までジャパコアしか聴いてこなかったって言ってたのに、今TOTAL CHAOSのTシャツ着てるんだけど、TOTAL CHAOS好きなの?」って聞いたら
「STREET PUNKのバンドに入るってなったらそういうバンドのTシャツの方がいいかなと思って、JIMSINN(原宿)に行って、STREET PUNKのバンドのTシャツ下さいって言って買ってきた!TOTAL CHAOSは聴いた事無い!」と。
あれ、もしかしてこいつも結構変なヤツなのかな?という予感が。その予感はまぁ的中したんだけどもその辺の話はおいおい…ともあれ、ひとまずメンバーいない問題は無事解消されたのでした。
こうして、新メンバーが加入したSMASH COCKSは、初めてのライブで上手く出来なかった初心者バンドから脱却する為に、まずはライブ慣れをしよう!という事になり、とりあえず曲を増やす事よりもライブをしようという事になった。カトチンも結構すぐ曲を覚えてくれて(ぶっちゃけノリタカより全然ベース上手かった)、次に行動を移しやすかった。まぁそんな難しい曲もやってなかったし。
この頃はまだ、活動し始めた新米バンドはライブハウスに出演依頼を出し、ブッキングライブなどをしているバンドも多く、ぼくらもその流れに乗って、平日にブッキングライブをする事になった。他のバンドに企画呼んで!とも言うのもシャクだし、かと言ってまだ自分たちで企画出来る様なバンドでもなかったから、まずブッキングでライブだなって話してた覚えがある。
記憶にある限りだと、池袋マンホール、小岩eM SEVEN、北浦和KYARA(移転前)でのブッキングライブだった覚えが。ブッキングライブに出ると、高校生のバンドや、一人でエフェクターと打ち込み機材を巧みに使って超絶ギターソロを持ち時間内延々弾き続けるような人と対バンだったりして、パンク・ハードコアのバンドと一緒にやる事がなくて、世の中って広いんだなーなんて思っていつも見てた。その中で、バンド名とかは全然覚えていないんだけど、小岩eM SEVENでブッキングライブした時に対バンしたバンドが「関西から日本のライブハウスをまわる旅に出てます!ブルーハーツとか大好きです!」みたいな事をライブ始める前のMCで言ってて、まぁ確かに見た目もそんな雰囲気あったからどんな曲やるのかな?って見てたら「鼻キッス〜鼻キッス〜♪」というようなサビで、歌詞は好きな子とキスしたいけど恥ずかしいから今はまだ鼻と鼻を付けあわせて鼻でキッス〜♪みたいな内容だった。カオリと、近所に住んでるからということで見にきてくれてたシンイチ(当時4SPiKES、現THE DiSCLAPTiES)がゲラゲラ笑い出してたので、とりあえず外に連れ出した。ぼくも笑ってた気がする。鼻キッスバンドはその後日本を回る事が出来たんだろうか…こんだけ強烈に覚えているんだから、インパクトはかなりなもんだったんだと思う。
移転前の北浦和KYARAは駅から凄く遠く、専門学校での授業後に直接向かったぼくは、一人で初めて行く会場に向かったので、途中道をなんどか間違えつつも、なんとかギリギリ、リハに間に合う時間に着いた。そこで初めてTAKEDA KASK(現THE ノーフューチャーズのスティーブ武田)と話したんだけど、彼の中ではメガネの鋲ジャンパンクスは、うちゅう君という認識があったみたいで「あの、うちゅうさんですか?」って声かけられたのが初対面だったのをよく覚えている。
これが!!うちゅう君!!だ!!
ベレー帽のスカート履いてる名古屋弁のエロマンガ先生がうちゅう君だ!間違えない様に。うちゅう君、今は地元名古屋に戻ってしまったんだけど(たまに遊びに来てる)当時は南浦和の駅徒歩5分くらいのとこに住んでた。TAKEDA KASKとぼくは同い年で、ぼくの実家から近い高校の生徒だったため、中学の同級生から聞いていた「体育祭後大量停学事件」の話をふってみたら盛り上がって、その時からなんやかんやと仲が良い。お酒飲んでないと全然喋らないし、お酒飲むとウザ絡みしてくる時もあるけど、その中間地点にいるタケダ君はめちゃくちゃナイスガイだぞ!
と、まぁとりあえず、今回はこの辺にしとこうかな。新メンバー加入からの、ブッキングライブ編。色々と後から思い出す事もあったりするんだけど、それは過去ブログに追記という形じゃなくて、その都度書いていこうと思うので、話が前後して見づらくなるかもだけど、その辺はご愛嬌ということで。
次もなるべく早めに更新するつもりですー、でわでわ
思い出し日記的なやつ【その6】
どうも、ぼくです。後列向かって左から2番目にいます。
向かって一番左は経血のツトム君(当時はTHE CHiLDiSH PRANK)ぽいな?
昔なつかし池袋マンホールでの一枚。SMASH COCKSラストライブの日。
さて、つい先日シンエヴァを見に行った勢いで、2年ぶりにブログを更新しまして( 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見終わって色々思い出した話(ネタバレあり) - ∞┗ノょ~ㄘん∞の日記 )ブログのページを開くのも実に2年ぶりくらいだったんですけど、
「どれ、いっちょ昔書いた記事でも読み直すか!自分で言うのもなんだけど、結構自分のブログは面白く書けてると思うんだよな〜!なんつって!!」
ってなもんで、昔の記事を見てたら、珍しくコメントがついてて、
「2年放置してたから全然気付かなかったわーどれどれ」
と思って見てみたら、元池袋軍団な元THE DiSCLOWTERや元THE TOiSRUSで、その後地元福島に戻りPATRONAGEをやってたタマ君からでした。コメントの日時が、約300日前…タマ君ごめん、気付かなかった(><)当時を懐かしんで偶然辿り着いたみたいで、コメントくれててありがとー!POGO OR DiE!とか言ってたのに、TODESTRIEBという暗黒な感じのバンドやってるよー!そのおかげで、パトロのヒロム君(現ATARAXIA)とも知り合ったよー!
ぼくの右隣にいる、水色の袖の鋲ジャンのナイスガイがタマ君。ここに写ってるの、TAKA-44以外は皆今何してるか全然わからんなぁ。元気でやってるといいんだけど。というか、ぼくめっちゃ痩せてる。
というわけで、今回のブログはタマ君のために書きます。見ててくれたら嬉しいな。というか、今回書く話には、結構タマ君の関わりが大きかったりするのです。エヴァの事書いてる場合ではなかったw
とりあえず、前回までのお話↓
ここから今回のお話↓
過去ブログを読んでて、さてどこまで書いたかな?と思ったら、【その3】で時が止まっていた…【その4】も【その5】も実質番外編じゃねーか…
と言う所で、【その3】を読んでもらえれば、話は早いんですけど、読み返すのメンドクセェってのもあるかと思うので、ひとまずざっくり書くと、池袋界隈を中心としてPOGO PUNXが大量発生2004年!みたいな流れの中で、ぼくもいよいよバンドを結成する事になったというお話。このバンドの話を持ってきてくれたのがタマ君。
ほんとはこのバンドでやるつもりだったけど、THE DiSCLOWTERの方が動き出したようで「りょーちんギターやらない?」って声掛けてくれたのでした。それで、ボーカルをやる事になってた1個上の女の子(当時)のKAORi-CATに連絡を取り、とりあえず、ベースやる人は決まってるから3人で会おうと言う流れに。ほんのりと暖かくなってきた2004年の3月頃だったと思う。
カオリとはライブでよく会う友達だったので面識はあったけど、ベースをやるNORi-TAKAはこれが初対面。どんなヤツが来るんだろうかと思っていたら、当時のSOBUTとかそっち系の雰囲気がどことなくある男だった。とりあえず、新宿駅近くの喫茶店に入り、今後の話とかをする事に。で、タマ君がやるってなってた時からPOGOをやる事は決まってたようだったから、
◎ドラムを探すこと
◎バンド名を決めること
が直近の課題に。
「ボーカルが女のPOGO PUNKってあまり聞かないし、なんかそれをコンセプトにしたい!男に負けないぞえ〜的な!」とカオリ(余談だけど、カオリは鈴木蘭々に似てたぞえ)
「STRIKE THE FACE(顔をぶん殴る)とか?」とノリタカ
「いや、SMASH YOUR FACEいるし、モロ被ってるわ…」とわし
「あ、SMASHいい!SMASH!SMASHいれたい!ぶっつぶせって感じする!」とカオリ
「男をぶっつぶすと言ったらキンタマしかないじゃん!(下品な笑い)」とノリタカ
「じゃあSMASH COCKSにするか…」とわし
そんなこんなでバンド名決定、SMASH COCKS
この日はそれで別れた気がする。帰り道「いよいよ俺もバンド始めるんだ〜」みたいな高揚感があった。
そして後日、バンド名が決まったら、ロゴも必要だろう!という話になり、現在TOM & BOOT BOYSでドラムを叩いてるTAKA-44に相談。彼は色々なロゴやフライヤーをデザインしてて、各バンドからの信頼が厚かった。マヨネーズ大好き仲間でもあり、ぼくをこの世界に引きずり込んだ張本人でもあるTAKA-44宅に乗り込む。
カオリが「池袋にあるから」と言う事で、東急ハンズ風のロゴのデザイン案を考えつき、「ハンズのロゴの手のイラストは人差し指が立ってるけど、パンクだし中指立てようぜ!」ってなったので、そんな感じに仕上げてもらう。今でこそ、フォトショやイラレを使って仕事やら私事をこなしてるぼくも、当時はまだMacintoshというパソコンに触る事がおっかないと思っていた時代。当時流行していた、スケルトンボディの激オシャレなiMacの画面に映るフォトショの作業風景を恐る恐る覗き込みつつも「あ、こここんな感じにして…」と口をはさむ。スローガンは入れたかったので、とりあえず最初に作っていた曲のタイトルである「WE DON'T GIVE A SHIT!」という一文を入れてもらう。そうして出来たのがこちら。
曲もメンバーも固まる前にロゴ出来ちゃった…
家庭用プリンターでシールの印刷までしてもらい、大変お世話になりました。悪ノリしたTAKA-44はA4サイズ目一杯の大きさでもステッカープリントしてくれたw
さて、問題はドラム。誰に頼もうか。ドラム出来る人もそんなにいないし、ドラム出来る人はみんなバンドやってるから、掛け持ちとか頼みにくいよなぁ〜。なんて言うのを日々考えてた。そんな中、2004年5月3日に高田馬場AREAでEXTINCT GOVERNMENT企画 "CONFLICT FOR FREEDOM"が開催。POGO MACHINEやIMPULSIVE、ORdERにHAT TRICKERS、そしてなんと言ってもDISCLOSEが出る!!ってなもんで高田馬場にPUNX大集合。当時大きなパンクのライブに行くと、7〜8割くらいの客が鋲ジャンで髪立ててた。ぼくは寝坊したかなんかで、髪立てる時間が無くて、鋲ジャンは着てたもののハット被って行ってた。CONFLICT FOR FREEDOM 2004のビデオでDISCLOSEの時に、ステージの前の人ごみの中を飛び跳ねまわってるハットが確認出来ますが、それ僕です。
で、そのライブの帰りに、MAッチャン(現在NO VALUEのVo)から、「りょーちんバンドやるんでしょ?ドラムいないの?俺ドラムやった事ないけど練習するから入れてくれー!」って言われて、「ハイ喜んで!」と2つ返事でOK
これでメンバーが揃った!曲もとりあえずなんとなく形にしたのは4曲くらいあるから、全員でスタジオ入ろう!という流れに。
当時、まちゃんが夜勤仕事で、日曜の朝10時から池袋のスタジオで練習するという、寝坊助なうえ埼玉から池袋に行かなきゃいけないぼくは、平日高田馬場にある専門学校に通うのとあまり大差無い時間に家を出るのがそこそこしんどかったw9時45分くらいにスタジオに着くと、スタジオ前の道路で、文字通り寝てるまちゃんを起こす所から練習スタートだった。
とりあえず、バンド経験者はほぼ皆無だった。ぼくは高校時代に部活の先輩と遊びでスタジオに入る事がたまにあり、なぜかミスチルのカバーをベースで担当していたwカオリはカラオケくらいしか人前で歌った事がない。まちゃんは完全初心者。未知数のノリタカは?と期待が集まるも「俺、スターリンしか弾けねーから!」と言うやいなや、ロマンチストのベースラインをいきなり弾き始める。そして何故か歌いだすカオリ。カラオケか。
ひとまず、ギターで作ってた曲を「こんな感じで」と恥ずかしいのを隠しながらたしか4曲くらい、スタジオにあるMTRでMDに録音しながらやってみる。ノリタカは押さえるポジション教えたら、普通に弾ける。お前、スターリン以外も弾けるやんけ。
ぼくが歌詞も作った曲もあったけど、カオリには歌詞のまだ無い曲には歌詞を考えてくれと。そしてまちゃんは、とりあえず叩ける様になる!という方向性で。ただ、いきなりオリジナルを覚えて、形にするのは初心者4人にはハードルが高い、何かカバー曲もやろう他のバンドもカバーやってるし。って事で何がいいかと会議。THE EJECTEDのEAST END KIDSは簡単だけど、みんなやっててありきたり。THE ADiCTSはこないだ4SPiKESがライブでやってた。スターリン、ノリタカうるさい。などと色々話してた結果、トレイシー・ウルマンのBREAKAWYのMAJOR ACCIDENTがカバーしてたやつをさらにカバーする事に決定。じゃあ各自これ聴いて練習頑張りましょう。というのが、最初期の活動の記憶。
なんやかんやと、まちゃんが毎日のように個人練入ってたりしてメキメキ上達。曲もカバー入れたら6曲くらいになったし、これもうライブ出来るじゃん!ってなり、まちゃんが、当時同居していた4SPiKESのギターのGOUさんに頼み込んでくれて、4SPiKESの企画で晴れてデビューを果たす事に。会場は当時、池袋界隈が拠点としていた今は無き池袋マンホール。残念ながら、当時のフライヤーは紛失。記念すべき初ライブだったのに、対バンとかの記憶が全然ない…今はそんな事はないんだけど、やっぱあの時はめちゃくちゃ緊張して、ステージで足が震えてたのだけは覚えてるから、ライブ当日の記憶があんまりない。
記憶はないけど、写真はあった。わし写ってないがな…ノリタカ半分しか写っとらんやん。ノリタカの写真全然残ってへんやん。ちなみにこの記念すべき初ライブの日に、池袋マンホール横の駐車場で、まちゃんが頭半分バリカンで髪を剃り落す儀式を行い気合い十分だった。この頃から、しばらくまちゃんは片ハゲ頭だった。後々ドレッドになった時も、最初は片ハゲの片方ドレッドという凄い頭してた。
持ち曲が少なすぎると言う事で、急遽、みんな大好きなTHE DiSCLAPTiESのATOMIC BOMBという曲をカバー曲として追加。歌詞を勝手に変えて、サビでATOMIC BOMB! ATOMIC BOMB!って言う所をSMASH COCKS! SMASH COCKS!に変更。デビューライブを見にきてくれてたディスクラのアライさんがフロアで苦笑いしていて目が合って気まずかった。そして、シュンさんからは「最高にパンツロックだったよ!」という謎の褒め言葉をもらったw
そんなこんなで、演奏面にはやや不安は残る物の、初ライブを無事に終えたSMASH COCKS一同は「よ〜し、これからどんどん頑張っちゃうゾ〜!音源とかも作るゾ〜!」なんて思っていた、そんな中、初ライブの余韻も覚めやらぬ頃にノリタカが
「俺バンド抜けるわ!」
と、ちょっとコンビニ行ってくるわ!くらいのテンションで言ってきた。
いや、えー?嘘でしょあんた?これからSMASH COCKSどうすんのよ!?初ライブ終わったばっかじゃん!!えーーー?
という事があり、わずか一回で、初代ベース脱退。なんかそれらしい理由も言ってた気がするけどあんま覚えてない。抜ける事に対して揉めたとかは無かったし、「まぁ本人辞めるっていうなら仕方ないねー」くらいの感じだった。それ以来、ノリタカの姿を見た物は誰もいなかった…今何してんのかな?バンドやる前に数ヶ月パクられてた事があったとか、ちょっと前までシ○ブ中だった、とか恐ろしい事をサラッと言ってたし、生きてるのかもあやしいw共通の知人いるのか知らんけど、誰か知ってる人いたら教えて下さい。
ここまでが第一期SMASH COCKSのお話。
文字チェックをかねて読み返したら、3年前に書いてた思い出し日記【その3】に加筆したような内容じゃねーか…
ここから先は、まだ書いた事のない話。はたしてSMASH COCKSの運命は?
続きはまた後日書く事にするです。でわでわ
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を見終わって色々思い出した話(ネタバレあり)
こんちわ。
全然ブログも書かず、最後の更新がほぼ2年前でしたので、久々に書こうかと。今回もパンク思い出し日記ではないお話になります。
オタク要素たっぷりの思い出し日記であり、エヴァが完結した区切りともなる今の思いなんかを書き残しておこうかなという感じで。
2021年3月8日(月)午前8時45分、その瞬間は思っていたよりもあっけなくすんなりと静かに始まった。
そこからの2時間34分、映画館に行く前はとてつもなく長い時間であるかのように思っていたその時間も、気が付けばあっと言う間。しかし、そのあっと言う間に感じた時間の中でも、およそ26年前に初めてテレビシリーズを見た新世紀エヴァンゲリオンという作品が、僕個人としては、しっかりときっちりと「完結」と言うにふさわしい終わり方を迎える事が出来たのでした。
僕と同世代の30代半ばより上の人達は、エヴァ直撃世代になるので、今回の完結編とも言える、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」は、とにかく待ちに待ち続けていた物だったと思います。それこそ、前作の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」で、アスカが口にした単語である「エヴァの呪縛」から抜け出せないまま四半世紀をチルドレンのまま過ごし続けてきたような大人達もかなりの人数いたんじゃないかと。僕自身もそのうちの一人だった気がする。
シンエヴァの話をする前に、僕がエヴァンゲリオンという作品とどのように過ごしてきたのかと言うのも書いておこうかと。まぁ僕のブログだし。
1995年、1月に阪神淡路大震災が発生し、オウム真理教による地下鉄サリン事件やテロ計画からの一連の逮捕劇だったり、少年犯罪も増えてきていたり、ノストラダムスの1999年の世界滅亡の予言まであと数年という話題がもちきりで、世間はどこか物々しく、暗く鬱々としていた時で、僕が生きてきた36年の中で、世間がどんよりとしていると強く思った最初の年だったように思う。そんな年の10月に、テレビアニメ「 新世紀エヴァンゲリオン」が放送開始。当時、11歳の僕は今のようなアニメオタクではなく、というか小学生だったし、アニメは夕方や日曜の朝に子供が見る物くらいの感覚でいたので、当然のように事前にはノーチェック。ただ、同級生の中に、兄がオタクというヤツがいて、そいつが「なんか面白そうなロボットアニメ始まるらしいよ!」なんて言っていたので、初回からエヴァの放送を見る事が出来たのは運がよかった。
最初の数話は話の内容的にもまだ明るい方で、「使徒と呼ばれる敵を倒す仕事をしている団体をまとめる父から急に呼び出されてロボットに乗れ!と言われ、葛藤する14歳の少年が成長していくストーリー」のように見えていたので、18時半の放送でも親がいる所で見る事は出来た。エヴァと呼称されるロボットも、デビルマンのような悪魔チックなデザインが、正義の味方っぽくなくてカッコいい!っていう感じもした。それまで見てきたロボットアニメの様な無骨なメカデザインじゃない所も、新しい何かを感じた記憶がある。あと、ロボットアニメなのに主人公が熱血じゃない(笑)なんとなく世相もあるのかなとか感じたりもしてた。
しかしなんだか徐々に陰鬱としてきた話の流れ、性的な描写なんかも見え始め、またキリスト教にまつわる宗教用語などがオウム真理教の一連の事件と何か関連するのではと思った親や世間の様相がなんだか良い雰囲気ではなくなってきたので、止む無く録画して、親が仕事に行っている一人の時間に見る様になったのでした。実際、かなりの苦情がテレビ局によせられたとも聞くし、オウム真理教のプロパガンダ的なアニメじゃないのか?なんて世間的に叩かれてたりもしてたのは、うっすらと記憶に残ってる。オウムもエヴァブームに便乗した勧誘活動をしていたっていう話もあったし。
新劇場版や、深夜枠での再放送からエヴァを見始めた人達が驚くのって、この作品が夕方に放送していた、って事。今じゃアニメと言えば深夜アニメが当たり前な時代だけども、当時はまだ深夜アニメなんて概念はほとんどなくて、せいぜいTBSのワンダフルの中のコーナーで稲中卓球部がやってたりとか、そんなもんだった。アニメは子供の見るもの感がまだ強かった時代なので、アニメが好きという事になると、子供もしくはオタクという扱いを受けるそんな時代でもありました。僕はまだ当時は子供カテゴリーです。
んでまぁ、テレビ放送版のエヴァの物議をかもした最終回(厳密には最終回の一話前の25話から、意味がわからない・コンテ絵やら文字だけがバンと出てきてセリフが難解など言われ、最終2話分が叩かれていた)を迎え、なんだかよくわからないまま終わってしまった感が強かった。小学生だから難しい事はよくわかんないだけだと思っていて、まぁとりあえず、エヴァはかっこよかったくらいで自分の中では終わり、同時期に放送してたガンダムWや名探偵コナンの方が小学生にとっては面白かった記憶がある。
そんな程度の小学生だったので、後に知るまでに、エヴァファンが庵野監督に対しての殺害予告じみた脅迫を送り付けたりして、物騒な事になっていた裏側があった事は知らなかったので、「エヴァの25話・26話を作り直す形で劇場版をやる」というアナウンスが出た時は、素直に興奮した。それが、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生」だった。
新作が見られると思い、1997年の春休みに映画を見に行く。テレビ版の総集編から始まり、肝心の最終話にあたる話の部分は制作が間に合ってないから夏に改めて公開するという発表が公開の1ヶ月前にされていたのもあったが、実際に見終わったあとはなんともモヤモヤした記憶がある。「最低だ俺…」のシーンでエッチだなぁ〜って友達がキャッキャしてたのは覚えてる。当時はDVDや配信なんてものは無く、VHSソフトも高価だし、LDなんて物も持ってないから、総集編で過去作をおさらい出来る作りは助かったと言えば助かったが、完結するまで半年近くも待たされるのかー!なんて思った。その後さらに14年も待たされる事になるとは当時はまったく想像もしてなかったが(笑)
余談として(余談ばかりだけど)この後に公開される「Air/まごころを、君に」のラストの方に流れる実写のパートで新宿ミラノ座の劇場内が映るシーンがあるんだけども、それはシト新生を見にきていた客を映した物というのは知られるけど、その会場にTACOS U.K.の坂本技師長が行っていたようで、「座席がもう2列くらい前だったら俺も銀幕デビューしていた」という話を本人から教えてもらいました(笑)坂本さんともシンエヴァについて話したいな〜。
そう言えば、シト新生と同時上映されてた、作品がなんかあったなーと思い出し、wikiで調べたら、「魔法学園ルナ LUNAR!青い竜の秘密スッポコ魔法作戦!」ってタイトルだった。が、タイトル見ても全然どんなんだったか思い出せない(笑)制作はJ.C. STAFFで監督が大地丙太郎さんだったのか…探して見てみようかな。
シト新生を見た1997年の3月、僕は小学校を卒業し、碇シンジと同じく中学生へとなるわけだけど、その4月に僕は初めて身近な死を経験する。おばあちゃんの死。エヴァが死生観なども作中の題材にあったため、寂しさにあわせてなんだかよくわからない感情もあった。そんな中、親戚の10個くらい年上の兄弟が葬儀のために新潟から埼玉まで来ていて、うちに泊まり僕の部屋で寝る事になったのだが、その兄弟、兄は理系のマジメなややオタク気質、弟は当時流行っていたサーファー系ヤンキーという面白い組み合わせだったんだけども、とても仲がいい兄弟で、僕は大好きだった。その兄弟もエヴァの劇場版を見に行っていたようで、僕の部屋にあったパンフレットを見つけ、夜更けまでエヴァについて熱く議論を交わしたのは、おばあちゃんの葬儀の日程の中でだいぶ精神的に助けてもらえたくらい楽しかった。ミステリアスな内容、意味深な話、などなど、当時からエヴァ議論なんてのは結構されていて、本屋に行くと、うさんくさい装丁の「エヴァの謎本」なんて考察本なんかも結構たくさん売られてた時代だったし、サブカルの代名詞的な所がエヴァにはあった。アンテナを張れている人には刺さっているのがクールな感じもどことなくあった。インターネットがまだ一般的でも無い時代のお話。その兄弟の兄の方は数年前に病気で他界、新劇場版のエヴァが公開されてからエヴァの話をした事はなかったけど、もしかしたらシンエヴァを楽しみにしていた一人だったのかも、と思うと、なんだか少しやるせなかったりもする。
そんな事もありつつ1997年7月に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」が公開。
これもまぁ終わり方が物議をかもして、やんややんや言われた問題作でもあったのですが、個人的には旧劇場版も凄く好き。旧劇場版にのみ出てきたエヴァ量産機(通称:白うなぎ)と、覚醒したアスカが操縦する弐号機が戦うシーンはロボットアニメの作画の爽快感にあわせてトラウマ級の残酷な描写が本当に素晴らしい。この辺の作画担当のアニメーターさん(今石洋之さん、磯光雄さん、本田雄さん、吉成曜さんなど)の存在が、後々僕が作画オタになるきっかけの一つであるという点でも個人的には重要なシーンだったりする。
そういえば、シンエヴァではこの辺の弐号機のセルフオマージュもありましたね。
とは言え、テレビアニメ版での全員集結して「おめでとう」で終わるラストを払拭するような終わり方を期待していた観客は皆、アスカの「気持ち悪い」という言葉で終わる最後に度肝を抜かれ、悶々とし、一部はアンチ庵野過激派みたいになっていて、とにかくこき下ろされていた問題作でもあったのは事実。
物語の軸となる「人類補完計画」について解明されるやも、という期待が見に行く人達の中にかなりの割合であったからなんだけろうど、結局フタをあけたら、碇ゲンドウが死んだ嫁に会いたいがためにワガママの限りを尽くして息子まで利用しようとしたにも関わらず、息子がそれを拒否したため失敗、その結果シンジとアスカだけが世界に残された所で、はいおしまい。って内容だったから、そりゃ荒れる。まぁ新劇場版でもゲンドウのやってる事は同じなんだけど。今のネット社会だったら炎上だけじゃすまないレベルだったかもってくらい荒れてた。それにあわせ制作サイドの逆ギレかのような、庵野監督への脅迫文やウェブサイトの書き込み、GAINAXショップへの落書きなどを実写シーンで使ってたのも、火に油みたいになって、ファンと言うよりは過激なオタク側との溝が深まってたような印象も当時は受けた。「なにが「まごころを、君に」だ!煽ってるじゃねーか!ぶっ○すぞ!!」みたいな事を真剣に言ってる人も結構いた。そういう所にもエヴァは社会現象だったと言われる所以があるんだと思うけど。とは言え、本当にエヴァにハマってしまった人達はエヴァの呪縛に捕われて、その後も議論を交わし続けるんだから、まぁオタクなんてそんなもん。庵野監督もかなりメンタル的にやられていて、エヴァを終わらせたがっているから、登場人物をいっきに死なせて、もう終わりにしてやるからお前らもいい加減終わらせろ現実を見ろって言ってるかのようなそんな感じの印象を受けた。
そんなこんなで、思春期にエヴァに充てられた僕は、すっかりアニメに取り憑かれ、エヴァをきっかけにアニメーターという存在を知り、可能な限りアニメを見てアニメに触れる様になったんですけど、まだ世間的にはアニメ好き=オタクという図式が強く、エヴァは誰もが知るオタクアニメの代表格だった。その頃はオタクと言えば、陰湿で気持ち悪くて最低の趣味と言ったような迫害に近い物を受けていたので、その趣味は隠し、中学3年生の時に衝撃を受けたパンクに人生を捧げる様になり、高校ではオタクである事を微塵も感じさせないパンク少年ではあったので、誰かとエヴァ議論を交わすなんて事も中々出来ず、悶々としていたりもしてた。
その後、高校を卒業し、専門学校も卒業し、社会人となり、以前いた職場では社会人2年目で新設する仙台営業所へと島流しもとい転勤となり、周囲に友達がいない環境の中、アニメやマンガを見て日々過ごしていた所、一つの転機として、パチンコのエヴァンゲリオンが世間的にブームに。そんな中、2006年には「エヴァンゲリオンをリビルド(再構築)する」というアナウンスが出され、2007年に「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が公開され、世間ではエヴァを見た事がある、知っているという事がそれまでのキモいという見られ方から、いつの間にかアドバンテージがあるようになっていたような…
「序」というだけあって、物語の序章。コンセプトがリビルドだったのもあって、基本的には旧作をなぞる形で話が進んだので、旧作ファンも、ここから見始める人にも見やすかった。技術の進歩の凄さにも驚かされ、とにかく映像がむちゃくちゃキレイだった事に驚いた。
エヴァがオタク向けコンテンツから、一般層へも届くコンテンツとして広く認知されるようになった瞬間だった気がする。スタイリッシュなアニメのようにも捉えられ、アパレルコラボもオシャレなのが多く、また芸能人でもエヴァ好きを公言する人が増えてきた時でもあった。当時の会社の7個年上の上司は、パチンコからエヴァにハマり、休みの日に僕からマンガやDVDを借りてエヴァを見たりもしてた。
翌、2008年に大阪の営業所の人が仙台へ島流しされてきたんだけども、その人もアニメが好きで話が合い、忙しすぎて帰れない職場で夜な夜なエヴァについて議論していた。TV版で加持さんを撃ったのは誰だったのか?とか、TV版から新劇場版の世界観のつながりは?とか、旧劇場版のアスカの最後の「気持ち悪い」というセリフの真意は?とか、そういうの毎日のようにメシ食いながらとか空き時間にダラダラ喋ってた。
2009年には「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」が公開され、ぼくらのエヴァ熱はさらに加速。
リビルドという意識を持って見に行ったら、いきなり新キャラのマリが出てきて、仮設5号機を乗り回し、見た事無い使徒と戦ってる冒頭からは、いい意味で衝撃を受け、裏切られた!という風に思った。とりあえず何度も見ないと!と思い、泊まり仕事空けの朝一の回で見に行って、映画館で寝てみたり、夜中の仕事に挑む前にレイトショーで見に行ってから会社に戻り仕事をするというような事をしていた。
そして僕と同僚は、エヴァの一番くじが発売される日の0時にコンビニに行って買えるだけ買ってみたり、たまの休みの日は一緒にエヴァのパチンコ・スロットを打ちに行ったりもしてて、個人的には凄く楽しかった。休めない帰れない仕事だったから無駄にお金はあったのだ(笑)
2010年に僕は島流しの刑期を終え、東京の営業所に戻るも、前の仕事の引き継ぎだったりがあり、ちょこちょこ仙台に行っては同僚と終わらない議論をしていた。
この頃からエヴァのライト層への浸透がすごく、企業コラボや様々な商品展開がされ始めてきていて、その辺に少し食傷気味になり始めていた時期でもあった。
誤解の無いように言っておくけど、「破」ももちろん好きです。
そして、2012年の「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」公開。
「破」での爽快なアクション要素が広く一般受けし、エヴァを好きなライト層も増え、個人的にはあまりいい気分ではなく、「破」の続きが見られるぞ〜なんてキャッキャしてる親子連れとかカップルで賑わうのを横目に、旧作からのファンはお呼びでないんだよみたいな空気感を勝手に感じ、映画館で僕は居心地の悪さを少し感じていた。劇場での公開直前には冒頭シーンの何分間が金曜ロードショーの時に公開され、物語の序盤と、宇宙空間で動くエヴァに、これからまた凄いアクションのあるロボットアニメが見られるんじゃないかと期待している人がたくさんいたのが初日までの世間の空気感。
しかし、初回の上映が終わり、映画館を出て行く人達からは満足げな様子は微塵も見られず、むしろ「期待していたのに裏切られた、ガッカリだ!」という面持ちどころかそれを口にしている人が多く見受けられた。この様子に僕は劇場から出て行く一人一人に「ざまぁwwwww」って言いたい気持ちになっていた。僕としては「Q」は最高の出来だったから。「だって、まだ完結編じゃない。物語で言えば起承転結の「転」それこそ、序破急の「急」だからこその「Q」じゃん!これでまた議論に花が咲く!楽しい!」っていう気持ちと、やはり過去のTV版、旧劇場版をリアルタイムで体験して少なからずガッカリした気持ちになったのを覚えているという卑屈な理由からでもある。新劇版から入ってきた連中はそれを伝え聞くだけで体験してないくせに噂やネットの評価だけで「破」だけを持ち上げ旧作をバカにしてる節があると思っていた僕には、この体験はして欲しかったりもしたからだ。性格悪いなー笑
2012年の12月に、仙台の営業所へ年末の仕事のヘルプとして約1ヶ月出張滞在する事になり、さっそくエヴァ好きの同僚をさそって何度目かわからない「Q」を見に行き、その見終わった勢いで後輩の部屋に乗り込み「序」と「破」のDVDを無理矢理流し続け、同僚と朝までエヴァを見て居座り、まだ「Q」を見ていないという後輩をも議論に巻き込んだりもしていた。それくらい、「Q」はエヴァを議論する人間にとっては面白い要素が詰め込まれていたんだと思う。新劇エヴァは考察して、新作で公式との見解とどう変わってくるかというのもあわせて楽しむのがよかった。それに、他の人の様々な考察を見て、充分確証を得られるような結論に至ってから、次が見られる!と思って見たら、全然違う角度からぶっこまれたりするのが楽しかった。とりあえず、スピンオフでもいいから、「破」の時に流れた「Q」の予告の、ゲンドウと冬月の山登りを解説して欲しい。
僕は「Q」を単体として見て評価し、ただ「つまらない」という烙印だけを押すような人とはエヴァの話をする事はできないししたくない。新劇場版は全4作で、その最後の話につながる所である「Q」の役割というのはとても重要な話だと確信していたし、実際「シンエヴァ」を見たらその通りだったからだ。
個人的に凄く嫌いな事として、「破」のラストで、綾波を助けたいシンジ君がエヴァ初号機を覚醒させてしまいサードインパクトを起こしかけている所でミサトさんが「行きなさいシンジ君!」と背中を後押ししていたため、「Q」で14年ぶりにミサトさんと対面したシンジ君が、ミサトさんから「もうエヴァには乗らなくていい」と突き放されるというくだり、これを表層的に見て「ミサトさんが行けって言ってたのにwww」というように茶化してネットでバズりたいだけのネタに走るツイートをしている連中が嫌い。そしてそれに乗っかって笑ってる表層だけで何も理解しようとせずただ見ているだけの連中も本当に嫌い。ミサトさんはTV版、旧劇場版でもシンジ君の保護者であり一番の味方だったんだと言うのは、今までの作品を見てきて普通の理解力があったらわかる。だからこそ、14年後にシンジと再会した時に本当は誰よりも喜びたいんだけども、打倒 ネルフとして加持さんと立ち上げた新組織のヴィレをまとめあげる立場にあるミサトさんとしては、感情を殺してまでして、シンジ君を今後危険な目に遭わせたくない・厄介な事に巻き込みたくないという気持ちからそう言った事は、国語の読解問題を小中とやってきてれば普通わかるでしょ。だから、仮称綾波にシンジがさらわれた時に、DSSチョーカーを起動させられなかった。そういう読み解き方が出来ない人ばかりがエヴァ含めアニメ作品を薄っぺらく見る様になってしまったのかなと、残念な気持ちになったし、未だにツイッターなどでネタにしてるのを見ると、イラッとする。
まぁ、それはそれ。とにかく、僕は「Q」を喜んだ。「破」からたっぷり3年待ち、いよいよ完結に向かうエヴァの考察をまた楽しめる。と、そう思った。だからストーリーは難解であればある程面白い。そこにどんな設定があろうと、ファンの深読みであろうと考える事は素直に楽しいからだ。その方が、次作を見た時に答えあわせも出来て、より楽しめる、そういう気持ちが、旧劇版の頃に培われてしまっていたからだ。
そして、2014年、いわゆる貞本版エヴァと呼称されるコミックが連載終了。
世界観としては、旧劇場版の世界を描いていたラストで、そのラストに、新劇場版の「破」で初登場したマリの謎に言及しているようなシーンが描かれている。貞本さんが忙しいのもあり中々連載も進まなかったという背景もあり、これも完結まで長い間待ち続けたな〜。貞本版エヴァのシンジはアニメ版と違い、とにかく性格が擦れている、感じの悪い少年だった。まぁ、家庭環境見たらそりゃそうなるわなって言うのもわかる。コミックのエヴァはまた違うテイストがあって、これも僕は楽しかった。エヴァファンにとって待たされるのは宿命なのだ笑
※ここからネタバレあり
そして、庵野監督のシン・ゴジラの監督だったり、度重なる公開延期を経て、やっと公開日が正式にアナウンスされたと思った矢先に、新型コロナウイルスの感染拡大防止のために、再度延期となり、ついに公開された「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」
初回の上映では、ちゃんとエヴァンゲリオンが終わるのかを見届けたいという一心で見に行っていたので、相変わらずの難解な部分だったり謎めいた部分への解説のような物は少なかったんだけども、その辺に関しては、どうせ繰り返し見るし、ファンの考察ブログやこれから公式で発売されたりする設定集なんかを見れば解決するだろうと思うので、ひとまずそこは大事ではなかった。ちゃんと見届けないと、という気持ちがとにかく強かった。
結論から言えば、僕の中でのエヴァンゲリオンはちゃんと完結した。正直、何がきても驚かないつもりでいたが、予想していない着地点だったので、最後までやられたなと思ったのだけども。
今までのエヴァ全てを見てきて、手放しですべてを肯定できるわけではないが、それでも僕の中ではエヴァという作品の特別さはダントツだった。それがきちんとした形で完結に至ったと、その気持ちが見終わった瞬間こみ上げてきた。当初懸念してた、2時間半という長丁場も、全く苦にならないくらいの時間だった。
いきなりラストシーンの話になるのだけども、エヴァの呪縛から解き放たれて青年になったシンジは、庵野秀明そのものだったように思えた。というのも、最後にシンジがいる駅のホームは、庵野監督出身の山口県の宇部。そして、シンジと結ばれる事になったマリがいて、二人で駆け出して行くという終わり方は、人生の伴侶である安野モヨコとエヴァの呪縛から解き放たれた庵野秀明のこれからを暗示しているように見えたから。昔、何かで読んだ記憶があるのだけども、庵野氏の初恋の人は声優の日高のり子さんで、真剣に告白しフラれてしまったと。そして、その日高のり子をモデルにして葛城ミサトを作り上げたという話。(これはネットで出てた噂だけど、レイ役の林原めぐみさん、アスカ役の宮村優子さんにも恋をしたが実らなかったと)そんな庵野氏が結ばれたのが漫画家の安野モヨコさんだったわけだけど、ミサトさんに憧れ、レイも好き、アスカも好き、でも実らなかったシンジ君が最後にマリとくっついた。この展開には、なんとなく庵野氏を重ねて見てしまうのも、無理はなかったのかなと(笑)実際、庵野夫妻はかなりの仲睦まじさで、シンエヴァにも安野モヨコ作品をフィーチャーしてる物がいくつか見受けられたし。
個人的に、今まで庵野秀明という人物を、監督であり眼鏡の無精髭というルックスも相まって、勝手に碇ゲンドウと重ねて見てる自分がいたんだけども、その見え方はシンエヴァのラストで覆った。これはエヴァンゲリオンという話だし、主人公の碇シンジという少年の成長の話であると同時に、庵野秀明本人の話でもあるのかな、とそう言う気持ちになった。
エヴァファンが長年、エヴァの呪縛から解き放たれたかったのは事実なんだけども、その呪縛から解き放たれたかったのは庵野監督自身だったんだろうな。エヴァが続いているうちは、いつまで経ってもエヴァの監督という肩書きに縛り付けられ、ゴジラをやれば、エヴァは?と言われ、シン・ウルトラマンを作るとなれば、エヴァは?と言われてきたその呪縛はクリエイターにとっては充分重い足かせでもあったんだと思う。
シンエヴァ本編の話に戻すと、TV版、旧劇場版、貞本版の全てのエヴァンゲリオンに対してのセルフオマージュがかなり見受けられた。裏宇宙の存在は、別次元で終了したエヴァンゲリオンの存在の示唆だったように思う。その一つ一つにきちんと決別するような作りからは、キャッチコピーの「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」その物に見えた。過去の登場人物もしっかり出てきたのも、そういう思いがあったんじゃないかと言う気すらしてしまう。
かつての同級生のトウジ、ケンスケ、ヒカリが出てきて、ニアサードインパクトから生き延びてたんだって嬉しく思えた所で、トウジとヒカリが結婚していた事が判明して、まるで自分の友達や同級生が結婚した報告を受けたかの様に嬉しかった。
そして、アスカがケンスケとくっついた事にも驚いた。中学時代はミリオタのキモい男子くらいだったケンスケと、ツンデレの代名詞にもなったアスカがくっつくなんて、誰も予想してないでしょ。アスカが作中でシンジに「前は好きだった」って淡々と言ってたのって、お互いエヴァの呪縛で体は14歳のままなんだけど、シンジと違って14年間意識があったアスカは中身は28歳の大人になってしまった、だからかつて好きだった中学の同級生を、今も同じ子供の精神レベルで好きとは思えないって事の現れだったんだと思った。上映後に、パンフレットを読んでいた時に、宮村優子さんが「今までどの世界でもアスカは幸せになれなかったから、今回は幸せになってほしかった」と言う様な事をコメントしていて、凄く同意し、上映中より泣けてしまった。
「Q」では消息がわかってなく、14年の間に死んでしまったんだろうなと思っていた加持さんにも言及され、その加持さんとミサトさんとの間に出来た息子が出てきた事も驚いた。加持さんいつの間に…
ミサトさんは母としては息子に接する事が一度もなく、母親らしい事が出来なかったから、最後に母として出来ることとして、加持さんと同じ様に自身を犠牲にして死を選んだんだけども、その信条からも、シンジの保護者でいるという強い責任感を持ったミサトさんの人間性が見て取れた。そのミサトさんから後を託されたリツコとの間の信頼関係なんかも見えて、死なないに越した事はないんだけども、こういう幸せの形もあるんだなと感じた。シーンとしては、ここが一番泣けたかな。今書きながらも思い出して涙出てくる。
そして前述した、シンジとマリのラストのシーン、大人になるシンジが出てくるのなんて予想してなかったし、マリとくっつくとも思ってなかった。予想をいい意味で裏切る終わり方でホッとした。
個人的な解釈の仕方では、TV版のラストは「あなたはここにいてもいいんですよ、個として認められる存在です、そこに気が付きましたね、おめでとう!」⇒「ありがとう」って感じで、旧劇場版のラストは「無理に誰かと一緒にいたり、同じ様になる事もないじゃんね、違う人間がいてもいいじゃんね」って事だったと受け止め(それ故に、他者の存在に対してのアスカの「気持ち悪い」って発言だったりもしたのかな?とかは思ってたんだけど)、要は、個々を認め肯定するって意味合いの終わり方だったと受け止めていた。だから、シンエヴァでも「Q」でメンタルズタボロになってしまったシンジ君がどーにかこーにか立ち直って、丸っとおさめて存在を認められるという終わり方を想像していた。
ところが、ちゃんと過去に決別しつつも、それを疎まず、新しい道に進んで行く、なんなら誰かそばにいてくれる人が一緒にいて、より強く未来に向かっていけるという、希望に満ち満ちた終わり方だった。これには面食らった。エヴァの終わり方として、色々妄想してきたけど、こういう終わり方は考えていなかったから。だからなのか、見終わって、1日経って、こうやって文章にしている今も、なんだか実感が湧いてこなかったりもする。
常々、エヴァの完結を見届けるまでは死ねない!とか、エヴァのラスト見終わったら満足して死んじゃうかも!とか冗談半分で話題にしてた事はあったけども、そういう気持ちにはなっていないのだった。最終話を見て、熱が冷めたなんて事もなく、俯瞰的に見てるような感覚がある。熱量に関して言えば、そりゃこんな、誰が見るともわからないブログを延々書いてるし、誰かと朝までぶっ倒れるまでエヴァの話をしていたい気分だし、公開されているうちは何度も見に行く!という決意すら揺るがないのに。多分、肩の力が抜けたような、そんな感じなんだろうなと。
36年生きてきた中で、26年好きであり続けたアニメなんて、そうそう無く、食べ物で言えばカレーやハンバーグぐらい自分の中では当たり前に好きな物になってたのだろうなと。だから、終わってしまった事に悲観的な気持ちにならず、安堵感と満足感で満たされているんだと思う。以前、10年ほど付き合っていた元カノもエヴァが大好きで新劇場版は幸せに終わって欲しいと言っていた事を、上映後にぼんやりと思い出し、ちゃんとシンエヴァ見たのかな?これから見るのかな?とかそんな事も思ったりはした。
こうやってだらだら書いていたら、カラーの公式ツイッターアカウントで、初日の動員が発表されていた。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』異例の月曜公開となりましたが、お陰様で多くの方に足を運んでいただき、初日興行収入8億277万4200円、初日観客動員数53万9623人と非常に良いスタートを切ることができました。皆様には感染対策などお願いばかりで恐縮ですが、本当にありがとうございます。
— 株式会社カラー (@khara_inc) 2021年3月9日
まだまだしっかり社会現象だったんだなと思ったりもした。
TV、旧劇どちらにおいても煮え切らないラストをリアルタイムで体験してしまっていただけに、本当に今はホッとしている。捉え方は人それぞれ、賛否もあるだろうけど、それはそれ。僕としてはちゃんと終わった。スターウォーズなんかEP7〜9が最低だったから、そういう意味でもホッとした笑
2021年3月9日の今日現在、まだまだ新型コロナウイルスの影響で、映画館も時短営業を余儀なくされており20時閉館となってしまっているため、最終の上映時間が17時とかになり、平日仕事後に気軽にフラッと行ける状況ではまだないんだけど、上映している間は行ける限り見に行こうと思っています。
見に行くまでは「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」というキャッチコピーに少なからずネガティブな印象もあったものの、そんな考えは杞憂だったし、今は「ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン」という気持ちです。作り上げてくれた、全てのスタッフにもありがとうという気持ちでいっぱいになりました。
ありがとう、エヴァンゲリオン。完結したけどもこれからもよろしく
思い出し日記的なやつ【その5】
POGO77(レーベル)のPOGO100(リリースナンバー)リリース記念レコ発ライブに行ってまいりました、2019年3月9日。これ書いてるタイミングではすでに3月10日。
SHITTY HISTORY OF POGO77という、150ページ近くに及ぶPOGO77の歴史を今村さんの言葉でドカッとまとめた本もこれにあわせて発売され、ライブから帰宅後、風呂入って猫と遊んで少し落ち着いてから読み始めてあっと言う間に2時間経過。
全部読み終わったのですが、こんな面白い本は久しぶりだなと、そしたら久しぶりにブログでも書こうかな、最近アニメの話しか書いてなかったし、いい加減続き書かなきゃとか思っていたけど、どこから書いていいのかよくわかんなくったので、とりあえずPOGO77に関するぼくの思い出とかを。
いつも仕事中にこっそり会社のPCで更新してるけど、今日はスマホからなので、文字飾りとかめんどくさいから淡々と…
そもそもぼくがPOGO77を知ったきっかけっていうのが、18歳だかそのくらいの頃で、TOM AND BOOT BOYS(以下T&BB)の現ドラム、TAKA-44(以下44)が原宿のSEXY DYNAMITE LONDONで働いてた時で、鋲ジャンの作り方を知らなかったぼくは、44に「鋲ジャンの作り方教えて下さい!」って話かけたのが始まりで、恐らく2003年とかそのくらいの頃。
高校卒業してフリーターだったから、休みの日は原宿行ってはセクシーに行って44と話してたのでした。その当時、竹下通りのド真ん中のJIMSINNではアズサ君が働いていて、アズサ君ともその頃に知り合ってたりもしてるけど、当時のアズサ君は今よりもギラギラしてて、なんかおっかなかったから、物腰の柔らかい44の方がぼくは話しかけやすかったのかも笑
そんなこんなで44と仲良くなって、平日昼間のお客さんいない時なんかは色々お店でCD流してくれて当時のアンダーグラウンドパンクシーンのバンドを教えてくれたのです。
当時はHPとかあっても、魔法のiらんどとかしかなくて、必要な情報が検索したら出てくるようなもんでもなく、バンドを知るにはDOLLを読んで、ユニオンでCDを買って、フライヤーでライブ情報を見て、ってのが主流だったけど、YouTubeがあるでもなく、高卒フリーターがポンポンCD買うとか出来なかったので、そうやって聴かせてくれたのが凄く大きかった。
それで、教えてもらったのがPOGO MACHINEとTHE DiSCLAPTiESだったのだけど、この2バンドを聴いてなかったら今は無いなって思うくらい、自分の中で大きなバンド。
それで、44に誘われディスクラのライブに行き、ユウト(THE TiTS)だったり、まちゃん(SHOTGUN PLAYBOYZ / NO VALUE)だったりと、今でも好きな人達と出会ったのもおっきかったり。
この辺の事は過去に書いてた気もするし、書いてなかったかもしれない。なんせ久々のパンクの話で書いてるから忘れてる笑
で、国内ならPOGO77、海外ならPUNKCOREあたりのハデハデなバンドがリリースしてるレーベルの音源を一生懸命聴いてたし、ライブも行ってたのです。
ぼくが、初めてT&BBを見たときは、ベースがリッキーさんで、ドラムがレオさんの時の編成だったかな?30'S PUNX GO FOR ITリリース後だからそのくらいの頃だと思うす。
今でこそ、今村さんとも面識があって、話したりもするけど、当時は「POGO77のT&BBのノリさん」って言うのが大きすぎて、アイドル的に見てた部分もあった気がする。そんな今村さんは、前にも書いたような気がするけど、当時ぼくらがいた池袋のパンク界隈をあんまりいい風に見てなかったみたいで、どこかで今村さんと初めて話す機会があった時があったけど、すごくつれない感じというか、メチャクチャ愛想悪くてショック受けた記憶があるのです笑、後年そんな話をしてたら「あの時は池袋軍団嫌いでさ~、ごめんね~笑」なんて言われた笑
その池袋軍団の中にいた44が、今T&BBでドラムやってて、なおかつ大事なメンバーになってるってのがぼくにとっては凄く嬉しい事で、続ける事の大切さみたいなのを感じたりもしたのです。
ちなみに、下北沢KILLERSのオーナー井上さんからも「当時の池袋軍団は…」みたいな事言われた笑
まぁ、池袋軍団当時20歳~25歳くらいの若造が集まって身内で企画してライブやって、みたいなの多かったから、その前からシーンにいた人達からみたら「どうせすぐいなくなる若い奴ら」みたいにしか見られてなかったみたい笑
ちなみに、当時の池袋軍団には、ノーフューチャーズのVoのイワタ君がドラムやってたBOOB$ $HITや、DUSTPANのGtのアヤトモが44とやってたDISSECTSや、HAT TRICKERSのGtのファンタことタケシ君とQUESTIONS AND ANSWERSのGtのシゲ君が一緒にやってたONE ARMED BANDITや、ぼくがまちゃんとやってたSMASH COCKSとか、まぁなんだかんだで雰囲気は変わりつつも今でもバンドやってる人達が結構いたりもするのです。
んで、やっぱり自分達のライブが無いときなんかはやっぱりみんなPOGO MACHINEやらSHIT-FACEDなんかのライブがあればそれ行け、やれ行けとばかりに見に行ってて、よく行ってたのは西荻窪WATTS。今はWATTSは無くなってしまい、当時の話をしてるときに、ワッツという単語を出すと、鶯谷What's upと勘違いされる事もあったりもするのです笑
今でもやっぱりあの当時に感じたり、見たパンクシーンの景色は凄く特別な物で、自分の中の原点みたいなとこはあるかも。
西荻窪WATTSでライブやれた事はなかったけど、渋谷のGIG-ANTICでライブやれた事はあり、それは凄く嬉しかった。ここがギクアンかぁ~と。
今現在、ぼくはCとTODESTRIEBというバンドに在籍していて、どちらもPOGO77な感じではない雰囲気のバンドではあるのだけども、T&BBのライブを見たあとは、やっぱり根底にあるのはPOGO77だなぁとか思ったりもして、鋲ジャンで髪立てて派手なカッコして直球ドタバタなアタックPOGOパンクって未だに実は憧れる部分もあったりする。
ぼくはCRASSやCONFLICT、及びCRASSレコーズのバンドも大好きなので、思想に基づいた主義主張があるパンクはもちろん好きなんだけど、やっぱり根底にあるのはFUCK OFF!だったりPISS OFF!だったりSHIT SHIT FUCKIN' SHITな身近な所に不満をダラダラ言ってるようなわかりやすいメッセージのパンクが一番好きだったりもするから、またPOGOパンクやりたいなぁと思う時もあるのです。
とはいえ、さすがにバンド3つ掛け持ちするのは金銭的にも、体力的にも、自分の自由な時間のためにもキビシいなぁと思ってるのでこれ以上増やす事はないんだけど。ぼくもいいお年頃だしそろそろ結婚してみたいしなんて思ったりもしてるし。まず相手がいないというか、絶賛片思い中なんだけど泣
そんなこんなでバンドを続けたりライブに行く事を続けて15年近く経つ中で、当時知り合えるとも思ってなかった人と知り合いになれたり、昔憧れてたバンドと対バンする事が出来たり、新しい友達が出来たりと、バンドやるのもそれなりに大変だけどやっててよかったと思うことの方が多くて、その体験をさせてくれるきっかけになったPOGO77というレーベルはぼくにとって本当に大事な存在なのです。
やっぱT&BBのライブは見てて楽しいし、体も動いちゃうし。
今村さんのアクティブな姿勢ってのは中々真似出来るものではないし、まだまだこれからも楽しませてほしいなと思うそんな夜なのでした。
久々のブログこんな感じで大丈夫?
中には面白いって言ってくれる人もいてありがたいのですが、ダラダラ書き連ねてるだけだし笑
というわけで、SHITTY HISTORY OF POGO77、再販無しの在庫僅少なので、読みたいと思った人は見つけたらぜひ手にとって読んでもらいたいなと思ったのです。
そんなこんなで明け方になってしまったので寝る事にします。
次回ブログ更新の予定は未定。
ぼくも昔の写真とか引っ張り出したいんだけど、部屋が同人誌の山で…笑